モノクロームの残影談話室より
D60・D61

忠賢八高様主宰のサイト「モノクロームの残影」(現在休止中)談話室に書き込みされた
D60・D61に関する記事を編集しました。
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[No.3208] 読書の秋 投稿者:isobe201  2002-11-03 (日)  15:14

  <URL: http://homepage3.nifty.com/isobe201/index.html>

久保田博氏の著書「懐想の蒸気機関車」はその後文庫版(「なつかしの蒸気機関車」)にリメイクされたりして(私自身は文庫版しか持っていませんが)ロングセラーになっていますが、最近再びリメイクされ、新たな記事が加筆され「追憶の蒸気機関車」という本になっていました。

先日何気に立ち読みしていたら、D61の記事に「二俣線でテストした」写真が掲載されていて、びっくり!即、購入してしまいました。

国鉄の部内の方のこうした貴重な記録がもっと出てくれば、いろいろな謎が氷解し、類書の多い沈滞したこの趣味の世界にも光明がさすのですが…。

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[No.3209] 津市偕楽公園のD51499 投稿者:吉野富雄  2002-11-03 (日)  21:38

  <URL: http://homepage2.nifty.com/SAKU1967/index.htm>

 isobe201様

 D61が二俣線でテストですか?!これは初耳でした。浜松工場で改造されたD611号機が一時中津川・稲沢一区に配属され、関西本線や中央本線で試用されたという話は知っていたのですが。軸重軽減改造をしているわけですから確かに丙線と思われる二俣線への入線は考えられそうですね。先のC6212号機の場合もそうですが、このような貴重な記録や証言等によって謎とされてきた事柄が明らかになれば素晴らしいです。

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[No.3211]  投稿者:忠賢八高@管理人  2002-11-03 (日)  22:57

二俣線にD61と言う話ですが浜松での手近な線区の丙線といえばずばりここしかなかったんでしょう。大分前の誠文堂新光社の蒸気機関車ガイドブックには確か「浜」の札をつけたD61が写っていたような気がしますし久保田氏の「懐想の蒸気機関車」は私も読んだ覚えがあります。

しかし何故D61が大きく広がらなかったか・・・、時は既にSLを改造してまでのものを必要としていなかったといってしまえばそうなんでしょうが従台車だけですからD51をC61に改造するようなそんなに大仕事であったとは思えません。少なくとも線路に負担は少なくなるでしょうに元のカマの調子が良くなかったD62ですら20両ということからしてもD61の6両はあまりにも少なすぎるような気がします。C61に改造されたD51の多くが戦時型であるのに対しD61になったD51は2次型ばかり。戦後の混乱期にボイラの具合の悪いカマはC61になってしまい不用となるD51がもうあまりいなかったというのは如何でしょうか。つまり改造の元となるD51に余剰があまりなく、かといって次世代のEL、DLがまだ開発されていない時代でもあり各区とも自分の所からD51を割けなかったでのではないでしょうか。私の勝手な推論ですが・・・・。

二俣線がC58じゃなくってD61だったらもちっと人気が出てたかな?

宗谷線の北部や名寄線を9600じゃなくD61だった・・・と考えると????

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[No.3216] D61 投稿者:燕号  2002-11-06 (水)  00:14

 こんばんわ、燕号です。

 管理人様が想像、推論されている他に、「そもそもD61に改造する必要は無かったのでは無いか」と言う事は考えられませんでしょうか? 鉄道ピクトリアルの中に「D51を丙線、簡易線に使用する場合は、必要に応じて制限事項を設け運輸大臣の承認を得れば良い」と記して有ります。例として八高線(丙線)では45キロの制限を設けて使用しているとも記されています。結局D61化で軸重を軽くして、牽引能力を落とす位なら速度制限なり設けて承認を取り、D51で運行した方が都合良かったと言う事ではないでしょうか?

 時代はDL、電化に進んでいるので改造に要する予算が付かなかったと解説している本が多いのですが、その理由のいったんに、甲線用のD52と違って乙線用のD51では丙線、簡易線迄も無改造でも入線出来、それ程改造する必要が現場でも認められず、両数が増えなかったのではないかと思いますが、如何でしょうか?

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[No.3217] D60は? 投稿者:144レ  2002-11-06 (水)  03:04

D61よりもD60の改造は?

9600の代替えが目的だったそうですが。

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[No.3218] D60 投稿者:燕号  2002-11-06 (水)  21:14

 こんばんわ、燕号です。

 そうですね、D60の場合は結構な両数が9600の置き換え用にと改造されておりますね。これは私の想像になりますが、

 1、D60への改造は動力近代化計画が確立される以前の計画であった

 2、D50に余剰車が発生していた

と言う事が大きいのではないでしょうか? 反面D61の改造が6両で終ったのは、D51の余剰車が少なかった事の他に、軽軸重化と言っても総重量は増える方向に有り、当初の計画通り丙線に入線出来なかったD60の経験より、D61への改造に積極的ではなくなったのではないかとも思えるのですが如何でしょうか?

 時代が変ってしまって、改造して使う事より制限付きでも運用できるならそれを選んだのではないでしょうか?

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[No.3220] D60 D61 重油専燃のC59 投稿者:吉野富雄  2002-11-06 (水)  23:13

  <URL: http://homepage2.nifty.com/SAKU1967/index.htm>

こんばんは。

 D60の改造ですが、燕号様ご指摘の通り動力近代化の進展によって余剰となってきたD50を改造し、磐越東線、紀勢西線、山口線などの輸送力増強を図って登場した機関車です。「蒸気機関車のすべて」によれば、25‰勾配区間での牽引定数をC58の220tから300tにまで引き上げることができたそうです。この書き方からすると、9600よりもC58の置き換えのような気もします。(製造はC58の方が新しいですが…)

 この当時はまだD51には余剰がなかったため、旧型のD50がタネ車に選ばれたのでしょう。また、この改造に当たっては先台車をはじめとして可能な限りの改良工事も行われていたとのことです。

 国鉄では、老朽蒸機の交換のために大規模な大型機の軸重軽減工事を計画していたようです。以前書き込みさせていただきましたが、C60も当初は151両が計画されていました。しかし、受け入れ側の各鉄道管理局では、「改造機受け入れによって、ディーゼル化が遅れる」という懸念からか抵抗が強かったようです。

 D61の改造がわずか6両で終わってしまったのは、D51でも制限付きで丙線入線が可能という理由の他に、上記のような事情もあったのではないでしょうか。昭和35年頃ですと、すでにDF50が実用化されていましたから「D61を改造する予算があるなら、DF50を入れてくれ」と思っても仕方ないと思います。 

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[No.3221]  投稿者:忠賢八高@管理人  2002-11-07 (木)  00:39

燕号さん

 納得のいく説明、ありがとうございます。速度制限で解決できればそりゃお金のかかることやりませんよね。でも丙線の八高線、どうして重連も可能だったんでしょうか?線路状態が悪ければ後部補機と言う手も有ったと思いますが・・・。

144レさん

 D60の入線線区は磐東、磐西、山口、筑豊、久大、紀勢でしたっけ。磐東は9600が一部入っていましたが原則D60のみ、磐西はD51、D50と一緒、山口はのちにD51、筑豊は山越えはD60とC55、久大はD60のみで8620(だったかな?)が少々、紀勢はC58が中心でD51もあり・・・ということは殆どD60も意義なしっちゅうとこでしょうかね。

吉野さん

 改造機受け入れによるDL化の遅れというのが結構あったのかもしれませんね。しかし当時DF50がやっと軌道に乗ったというところでしたがまだまだDLの信頼性は低かったと思います。磐西の郡山ー若松はD50、D51、そしてD60の他にはDF50も入っていた面白い線区ですね。

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[No.3222] D60 投稿者:TADA  2002-11-07 (木)  01:30

  <URL: http://www.photoland-aris.com/kisya/>

横黒線もお忘れなく。(^0^)

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[No.3223] C59が東北本線の補機に?ほか 投稿者:田駄雄作  2002-11-07 (木)  10:16

  <URL: http://tadayusaku.2.hotspace.jp/>

D60は池田機関区にもあって、根室本線帯広-釧路や池北線でもC58や96と共に使われていましたね。

八高線でのD51の速度制限はおそらく高麗川以北のことだと思います。

随所に制限45の標識があり、D51・D50!の形式名が添えられていました。高麗川以南では見たこと無いです。

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[No.3225] D60雑話 投稿者:831列車  2002-11-07 (木)  12:12

「追憶の蒸気機関車」と同じ著者である久保田 博氏の文なので、重複することもあるかと思いますが、ファン誌71ー10(126号)の「D60形蒸気機関車の想い出と現況」によれば、D50を改造転用して下級線区の輸送力増強の実際に寄与できたのは北上(横黒)の8両、磐越東の13両、紀勢の8両、山口の10両、久大の11両の計50両であったそうです。残りの28両についてはバック運転で脱線しやすいD51の運用を解消する目的で根室・日豊・筑豊に投入されたわけです。しかしこの投入はD60改造の当初の目的にはなかったことのようです。総数350両のD50の約四分の一がD60として新たな職場を与えられたのも、逼迫する輸送事情とD51の不足など、時代の要請もあったことでしょうが、性能の改善より運転台の広さなどが乗務員に歓迎されたともあります。

晩年のD60の配置が集中し、最後の活躍の場となった筑豊・直方ではD51との共通運用もありましたが、両数の優位さは最後まで譲りませんでしたね。結局筑豊の軌道構造はD51の入線に問題はないものの、炭坑の専用線や本線の補機に使用時のバック運転の重宝さでD60が生き残ったのでしょう。上山田線は元の筑豊線部分ですので軌道については問題なかったのですが、飯塚に転車台がなかったので、入線するとバック運用が増え、D51よりD60が用いられたということもあるようです。

D61についてもこの文で触れられていますが、「後世史家の評としてD50のD60改造より、D51のD61改造を行うべきであった。ということがある。しかしD60改造を計画した折には、当時D51は幹線の主力機であり、到底下級線区へは分けられなかったのがD50が改造された経緯であろう。」

実際に小倉工場で最後のD60の世話にあたった久保田氏の文だけに説得力がありました。

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[No.3226] 池田のD60 投稿者:北のC55  2002-11-07 (木)  12:17

北海道では、池田機関区にD60が集中配置されていたと聞いたことがありますが、詳細をご存知の方おりますでしょうか ?

池田だと池北線用だったのですかね ?

根室線用だと池田に集中配置する必要もないと思うのですが。

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[No.3227] すでに解答が 投稿者:北のC55  2002-11-07 (木)  12:22

池田のD60は、すでに田駄様がお答えでした。。。。

池北線に入線していたなら、D60が北見までやってきた可能性もありますね。

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[No.3228] D60の配置 投稿者:C58309  2002-11-07 (木)  12:59

ちょっと意外なところとして昭和39年には出水機関区にも4両ほど配置されていました。

ちなみに全78両中池田に12両、北上に4両、横手に4両、郡山に12両、紀伊田辺8両、津和野に10両、直方に9両、大分に11両、柳ヶ浦に3両、そして出水に4両の77両でした。D6073だけは廃車かな?

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[No.3229] 疑問?! 投稿者:燕号  2002-11-07 (木)  20:51

 こんばんわ、燕号です。

 D60、D61への改造ですがD50、D51と共通運用が多く、後にD51が入線した線区まで考えると、改造は本当に必要だったのか?と思ってしまいます。時代が進むにつれて、その間に軌道強化があってこの様な結果になったのか、軸重、車重による入線条件が緩和されたのか、真相はどうなのでしょうかね?

 出水区の4両は出水−水俣間の補機運用についていたそうです。

 又、D51の丙線入線は軌道条件によっては制限無しで使用(八代−人吉)も有ったそうです。こうなってくるともう、ナニが乙線でナニが丙線だか判らなくなってきます。

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[No.3247]  投稿者:忠賢八高@管理人  2002-11-09 (土)  01:07

どもみなさんこんばんは。21世紀にC59やD60のネタで盛り上がっているのはこの板くらいでしょうね〜。毎度ありがとうございます。

TADAさん

 ちょっと出遅れ気味ですがすっかり横黒線を忘れてました。

田駄さん

 D60は池北線も使ってたんですか!

831列車さん

 久保田氏の説、やはりD51の不足があったようですね。しかしバック運転にD51が不向きだとは知りませんでした。矢立など逆向き運用は結構ありましたんで特に問題があるとは思いもよらずです。

北のC55さん

 池北線とはちょっと意外ですね。D60を使うほど荷があったんでしょうかね。12両と言うまとまった数ですから意図は確かにあったんでしょう。

燕号さん

 時代がD60を生み出したようなもんであと5年遅かったらD51でしょうし、10年遅かったらDLになっていたんでしょうね。

 出水区のは補機なんですか!これまた意外な・・・・。

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