C12保存機 大いに語る
第1部
831列車様 作


撮影者は特記ないものは作者によるものです。


時は西暦2001年秋、ここ静岡県の大井川鉄道・新金谷機関区には全国から集まったC12型蒸気機関車の保存機の面々が久々の再会を果たし、思い出話しに花が咲いていた・・・。

主催者「本日はお忙しい中お集り頂きまことにありがとうございます。
本日の会合は、来年の2002年(平成14年)がC12型蒸気機関車の製造開始、つまり1号機が誕生してちょうど70年という節目の年に当たり、また近年各地での蒸機の復活運転も盛んになって、新たなSLブームが起こりつつあるなかで、全国に保存されたお仲間に集まっていただき、保存の現状や思い出話などをざっくばらんにお聞きしようという趣旨で開催いたしました。
そこで今回この会議への御参加を募ったところ多くの方から出席の御返事を頂き、主催者として感謝しております。
御承知の通りC12は国鉄向けには293両が製造され(一部の買収機なども含む)、そのうちの31両が役目を終えたのち保存されました。
総数の約10%が生き残った訳で、またC12は戦時供出として総数の20%にあたる62両が出征しており、このため国内に残ったもので見れば残存数は約13%になります。
また国鉄を引退後もここ大井川鉄道様の御尽力で164さんが動態保存され、次いで真岡鐵道様でも66さんが復活するなど、今なお2両の仲間が現役として活躍中であることは誠に喜ばしい限りです。
そこで今日はこのお二方に会議の司会進行をお願いしたいと思うのですが、みなさんいかがでしょう?」
(一同、拍手で承認)
主催者「ありがとうございます。それではお二方にあとはお任せ致しますのでよろしくおねがいします。」


164(S12日車 48―9木曽福島廃車 大井川鉄道動態保存)
「ただいま御紹介に預かりました164です。多くの仲間のうちで司会の大役を仰せつかり、たいへん恐縮しています。私は会議場を提供していただきました大鉄様の地元機ということもありますので、ひとつよろしくお願い致します。」


66(S8日立 47―5会津若松廃車 福島県伊達郡・旧岩代川俣駅跡に保存後、現・真岡鐵道で動態保存)
「真岡の66です。私も動態保存機ということでお選びいただいたわけですが、まだまだ不慣れな面も多々あるかと思います。ここはひとつ164さんと協力して盛り上げて参りたいと思っていますので、御協力よろしくお願い致します。」
164「さて、この会議の進め方ですが、いろいろ考えた末あまり堅苦しい事は抜きにしたフリートークでまいりたいと思います。
一応若い番号順に自己紹介をかねてお話を伺いますが、保存地の近接さや同じ職場で働いた仲間など、それ以外でも何らかの関係でつながりのある方も多いようなので、そのつど割り込んで発言なさっていただいても一向に構いません。
配置の履歴や現役時の思い出、また保存への経緯や現状、そしてファンや鉄道界への言いたい事など、自由に発言していただいてこの会を有意義なものにしていきたいと思います。」
(再び拍手)

66「発言に入る前に祝電が入っておりますので、お名前だけここで披露させていただきます。島原鉄道のC1201様、鹿児島交通の12号機様です。
実はこのお二方にも同型の保存機ということで御案内を差し上げたのですが、どちらも『私たちは民鉄暮らしで一生を終えたので、なかなか話題もないし、九州からではちょっと・・・』とのことで出席は控えたいとの御返事でした。」
(「え〜」という会場内の声)
66「私たちも遠慮はいらない、とお誘いしたのですが足腰も弱っている?とのことでもあるそうなので、またの機会にということでした。

    
島原市霊丘神社に保存されている自社発注機C1201。木部様ご提供

    
加世田運動公園に保存されている鹿児島交通12号機。木部様ご提供

    
1978年8月10日鹿児島交通加世田 自社発注機13・14号機
赤みがかっているのはサビではなくサビ止め塗料の色、撮影TADA

さて、それでは自己紹介をかねてトークを始めたいと思います。
トップバッターは北海道の幌内からお越しの2号さんですね。よろしくお願いします!」

2(S7汽車 44苗穂工廃車 三笠鉄道村保存
「トップナンバーの1号は早くに鬼籍に入っておりますので、保存最若機の私2号から先陣を切らせて頂きます。
私は製造後、仙台に配属されましたが、戦前にはすでに北海道に渡り、旭川〜苫小牧などを経て36年にはもう第一線を退いて苗穂の工場入換などに働いておりました。
44年の廃車後は札幌市の円山動物園に保存されましたが、昭和62年(1987)に現在の三笠に移りました。
私は幌内地区にある扇型庫風の展示場に9600さんなどと一緒におります。
したがって雨風はしのげるためまあまあの環境で隠居暮らしをしております。」

164「なるほど、お姿を見る限りでは今は痛みはないようですね。
ところで北海道特有のスノープラウ昇降用のシリンダーは2号さんは付けなかったのですか?」
2「いやいや、やはり北国の必需品ですから私も装備していましたよ。
もっともいまは外されています。
そういえば手宮に保存の築港の6号さんもいまは付いていないようですよ。」
66「せっかくの地方性のある設備なのだからそのままの方がよかったのですがねえ。」
 
         
三笠鉄道村の快適な庫内で満足そうなC122(平成3年=1991年撮影)

*注 C12 1 S7汽車製 新製配置は西吉田。弥彦線などでまず活躍し、会津を経て北海道入り、昭和16年函館〜釧路(標茶支区)〜24年小樽築港〜25年富山〜高岡〜29年糸魚川と移動〜37―7―16糸魚川にて廃車。

164「次は番号順でゆくと甲府の5号さんですね。」
5(S7汽車 45―4甲府区廃車 市内舞鶴公園保存→注)
「はい、今日は甲府から身延線経由でやってきました。意外と近いものですね。
さて私は甲府が最後でしたが昭和24年頃には苫小牧にいて2号兄さんと一緒だったんですよ。
覚えていますか?」
2「う〜ん、そういえばいたような・・・昔の事は忘れちゃったね。」
5「はあ(とため息)、そうですよねえ、もう50年以上前のことですから・・・。
え〜とそれで私はその後内地へ戻り、軽井沢などを経て最後が甲府周辺の入換や小運転でした。
しかし無煙化の頃はすでにSLブームが本格化しており、皆さんの注目も浴びていたせいか、甲府の人たちの心遣いで私たちも『さよなら運転』をしていただけたのが良い思い出です。」
164「ほう、それはどんなものでしたか?」
5「ええ、普段は旅客列車など牽かない私たちに特に列車を仕立てていただき、45年の4月28日に甲府〜塩山を相棒の280とともに牽引したのです。
愛称も甲斐の名将にちなみ『信玄号』と付けてもらいました。」
280(S22日車 48―5厚狭廃車 徳島県小松島公園保存)
「そうそう、あの時は客車も8両と盛大で、5号兄さんと私でプッシュ・プル運転でした。」
5「おっ!280さん、元気でしたか。お互い31年振りですが、よく健在で・・・。
あ、すみません自己紹介の途中でした。
そして30日限りで任を解かれた私は機関区を望む駅前の旧甲府城内の公園に保存されたのでした。
当初はデッカーED17さんや、なぜか足のない都電さんなどと一緒に展示されてちびっ子の人気者だったのですが、ブームも去ると私を見に訪れてくれるのは一部のファンの方々だけになってしまい、当然体もあちこち痛んでしまって都電さんもいなくなり、また最近ED17さんも整備されて甲府を去ってしまい、私も行末を案じておりました。
が、近年お城周辺の環境整備があり、私もついでに補修などされていくらかは持ち直しました。」

        
     *甲府城下の木陰でのんびり過ごす5号。

*注 なお同機は近年再整備されたのち、韮崎市の中央公園へ移設されている。
       
  2008年11月11日 韮崎市中央公園 露天ながら状態は良好 撮影TADA

164「なるほど、やはり5号さんも忘れられた保存機になるところだった訳ですね。
保存場所周辺でこういった公共の整備工事でもない限り、公園機関車の状態維持がたいへんなのがわかります。(一同、うなずく)
ありがとうございました。さて次は再び北海道に戻って小樽交通記念館の6号さんですね。」

6(S8汽車 48―4小樽築港廃車 北海道交通記念館保存
「2号兄さんと一緒に来ました、小樽の6です。
古くは名古屋あたりにいたような記憶もありますが、やはり生涯のほとんどは道内で過ごしました。
2号兄さんは苗穂が最後でしたが、私は築港にいて同僚の38・64さんなどと主に手宮の入換えを仕事にしていました。
ただ築港にいてもここのスターはC62さんで、ファンの方はほとんどそちらか、またマスコットのB20君へ興味があって、朝早く手宮へ行って一日入換して帰ってくる私たちにはなかなかカメラを向ける人はいなかったようです。
世間はSLブームでしたが北海道最後のC12とはいっても地味な最後でした。」
66「6号さんは手宮のDL化までいたのですか?」
6「いえ、手宮の無煙化は48―10でしたが、私は一足早い4月に引退して、加古川から来た225さんに後を託しました。
幸い若番号とかの理由で解体は免れ、しばらく保管されたのち、働き場所だった手宮の記念館にC5550さんやC623さんとともに保存されたのです
。225さんも今日はお見えのようなのでバトンタッチした相手に会えて嬉しいです。」
2「それにお互い北海道の鉄道発祥の地である両端の幌内と手宮に施設が出来て保存されているのも嬉しい事です。
いつか再びレールが敷かれてお互いが行き来できる様になればもっといいのですが・・・。」
164「そうですね、そんな夢も叶えられれば鉄道ファンだけでなく、北海道の交通史を知る上での良い教材にもなりますね。
ひとつJR北海道様や自治体の皆さんに考えていただきたいものです。」

     
2000年11月19日北海道鉄道記念館 保存車に囲まれた6号機 撮影TADA

66「6号さんの後は・・・え〜と(と出席簿をめくる)、ああ本来なら6号さんの一つ下の兄弟機・7号さんが東京の品川に保存されていたのですが、残念ながら老朽化のため近年解体されてしまったようです。
C12の保存機の中で保存後解体されたのは7号さんだけのようですが、惜しい事です。」
5「ちなみに7号さんは昭和8年の汽車製で、36年には私と一緒に軽井沢におりました。
最後は高崎へ移って足尾線だったようです。」
6「そうでしたか・・・、弟とはほとんど一緒になったことがなかったので今日の再会を楽しみにしていたのに、やはり保存先の条件や対応などによって我々の生涯も決まってしまうのですかねえ。」
66「でも7号さんの部品の一部は他のC12の補修用として使われているそうなので、彼の魂は今も生きているのです。」
164「そうですか、7号さんも自分の部品が活用されていることを思えば今もみんなのために役立っていることに納得されることでしょう。(一同、うなづく)
せめてもの供養にと事務局の方で保存で健在だった頃の7号さんのお写真を用意していただきましたので、皆さん御覧下さい。」

                  
            *健在な頃のC127号。(昭和47年撮影)
  *C127 S8汽車 45―6高崎一廃車 東京都品川区の戸越公園に保存も老朽化のため1990年に解体

「ロコのページ」酒井様より7号機について次のようなコメントをいただきました。
「ちなみに解体されたC127の部品は、日本ナショナルトラストがC12164の保守用として保管しています。
ナンバープレートは活躍していた碓氷峠鉄道文化むらに展示されてますね。」


164「そういえば66さんのいる真岡に動態保存の話が本格化した頃、なぜか7号さんのナンバーを付けたハリボテのC12の模型が一時展示されていたそうですが、あれはどうなったのでしょうか?」
66「さあ、その後真岡の駅舎も改築され、本物のSLが復活したせいか、いつとはなしに消えたようですね。それにしてもなぜ7号さんだったのでしょう?」
164「事務局にあったその写真を見ると、ライトなんかいい感じだし、バケツ?の煙突もユニークですね。かなり大きなもので将来の動態保存への期待をこめたものだったのでしょう。
一体どこへいったのでしょうか謎です。」
 
      
     *真岡のハリボテC127号機(平成3年=1991年撮影)

164「その後の消息は不明、と・・・・。それでは次にまいりましょう。大宮の29号さんどうぞ。」
29(S8日立 44大宮工廃車 市内山丸公園保存
「鉄道の町・おおみや からまいりました29です。
町は『さいたま市』になったものの、JR大宮支社が発足するなど、鉄道の要衝としての当地の威厳?は保たれております。
と地元自慢をしたところで自己紹介いたします。
私は新製配置は横浜ですが、すぐ山陰の米子の分庫だった出雲三成に移ったため、もっぱら西日本育ちです。
が、後に北海道に渡り滝川・渚滑などで働きました。
その後内地へ戻り、最後はここ大宮の鉄道工場の入換え機となりました。
なぜか2号兄さんと同じく44年に廃車となり、45年2月に駅の反対側にある大宮市役所(今は市役所ではなくなりました)横の公園に展示されたわけです。」
164「すると2号さんなどと同じ鉄道工場の専用機関車だったのですね。
じゃああまり一般の人の目に触れる機会は少なかったのでは・・・?」
29「そうですねえ、でも大宮はけっこう鉄道施設としては地元に密着していたしファンの興味を常にひいていたので、私たちがいることは結構知られていましたよ。
ただ自由に工場には入れませんでしたから、入換え作業などで駅あたりまで出てきた所をよく写真に撮られました。
私たちのほかにも工場にはC11さんなどがいましたが、今はその役割をDD16さんが引き継いでいます。」

        
  保存されて間もない頃の29号 煙突前の「鐘」も健在(昭和48年撮影)

*注 C11322など(44大宮工廃車 鴻巣市に保存 戦時型の角形ドームとやはり煙突後ろの「鐘」が特徴。)
なお晩年、大宮の入換機には事故防止のためにエンドビームや背面などにゼブラ塗装がなされ、また炭庫・水タンクなどの上面に黄色いラインが入って、ちょっと変わった雰囲気を持っていた。

164「大宮のC12は地道な活躍だったのですね。
そういえば66さんの復元作業も大宮でしたよね?」
66「そうです。D51さんやC58さんで実績のあるここで私もお世話になりました。
目と鼻の先に29さんがいるとは知らないで、今になって御挨拶するのは恥ずかしい限りです。」
29「いやあ、『大宮でC12を復元』の話を聞いた時、最初は私のことかと思いましたが、真岡から66さんが運ばれてきたときはあぜんとしましたよ。
駅の反対側に俺がいるのになんで・・・!とね。
でも作業の進展を見ていく内に、仲間がこうして現役に復帰する姿を頼もしく思うようになりました。
できれば私は今の場所よりかつての職場の工場内に展示替えをして頂きたいのがせめてもの希望です。D51187さんとも話がしたいしね。」
66「私も29さんの分まで頑張りたいと思います。
そういえば大宮では懸案の『鉄道記念館』の構想も何やら動きだしたそうで、もし建設が決まればきっと29号さんも展示機として呼ばれるかも知れませんね。
きっといい知らせがあると思いますよ。
さて、続いては38号さんですね。」

38(S8日立 49―3小樽築港廃車 大阪共栄興業保存
         
  2003年7月11日 「蒸気機関車ほか 鉄道保存車両について」やまてつ様ご提供

「6号さん、64さん、225さんなどと一緒に築港で働いた38です。
手宮のDL化後もしばらくは築港に籍はありまして、廃車は49年の3月でした。
お呼びがかかったのは大阪の共栄興業という会社で、ここは機関車の好きな社長さんがいて、あの有名なC57148さんを始め多くの機関車を引き取り、また部品やナンバープレートなども収集され、しかも本社ビル内に展示場まで作るという熱の入れようで、私もその仲間に入れて頂いたのです。
おかげで本社ではありませんが、同社の大阪南港の基地内に立派な展示場所を設けて頂き、民間に保存されたC12の中でもかなり良い保存状態を保っています。
また私の姿は小樽時代のままで、二つ目・昇降シリンダーも付いています。」
66「ほう、確かにピカピカですねえ。なかなか民間ではここまで出来ないものですが、熱意だけでなく資金面でも恵まれた環境にある38さんは幸せでしょう。」
164「38号さんの次は桐生の49号さんですね。」

49(S9川車 43―10桐生区廃車 市内桐生ヶ丘公園保存
         
2006年10月7日「蒸気機関車ほか 鉄道保存車両について」やまてつ様ご提供

「川崎車両製では国内唯一の保存C12の49です。
私は昭和9年に桐生に新製配置されて以来、43
年に廃車になるまで終始桐生を離れずにいた『足尾ひとすじ』のC12でした。
桐生はのちに支区を経て配置はなくなり、高崎一区に集約されましたが、私の履歴は桐生区での廃車となっています。
また足尾線には生涯のほとんどをここで過ごした生え抜きの仲間が多く、特に私を含めた46〜49の4兄弟機は揃って桐生(高崎一)で廃車まで過ごしました。
私は足尾線の無煙化(45―10)より一足早く廃車になり、地元桐生市内の公園に保存されました。
場所は上毛電鉄の西桐生駅より徒歩20分ほどのところです。
屋根付きですのでまあ何とか形は保っています(笑)。」
164「生え抜きで地元に保存されているということは、やはり皆さんの思い入れがあるのだということでしょうね。
ところで49さん以外のお仲間のその後や足尾のさよなら運転などはどのようなものだったのですか?」
49「はい、46〜48までの兄貴たちはいずれも無煙化の前後に廃車となりましたが、残念ながら保存はされませんでした。
また最後の配置車は他に163さん(平より)、187さん(水戸より)、263さん(宇和島より)という方々でしたが、幸いにも187・163さんの両人とは今日も元気で再会できました。
あ、それに先程の7号さんもわずかですが高崎に在籍して足尾線を走ったようですが、詳しくは御本人もすでにいないし、私もすでに引退していましたので、詳細は不明です。
それからさよなら運転ですが、高崎局(当時)の御好意で、45年10月4日に高崎〜桐生〜神土(現・神戸)で運転していただきました。
この列車を牽いたのは41と46さんで、もちろん足尾スタイルの重連でした。
なお高崎〜桐生は八高線でもさよなら列車を牽いたC58309さんが勤めました。」
164「ありがとうございました。さあつづいてまいりましょう。60号さんどうぞ。」

60(S9汽車 47―5会津若松廃車 福島県飯野郡旧岩代飯野駅跡保存
         
2004年8月5日「蒸気機関車ほか 鉄道保存車両について」やまてつ様ご提供

「関西育ちの60です。
戦前は宮原などにおったのですが、その後はもっぱら西舞鶴で支線の貨物や舞鶴付近の入換え、そしてC12には珍しい補機などをしておりました。
仲間もけっこういたのですが、宮津・小浜・舞鶴線、そして山陰本線・福知山線には9600さんやD51・C58・C57さんがぎょうさんおって、私らはあんまり目立たずに役目を終えたのです。
ただ私はここでの廃車は免れ、47―3―23付けで会津へやってきました。
そやけどここは当時はC11さんのフランチャイズになっていて、C12は日中線などで少し活躍した程度で、もういらん、と言われてしまいました。
ね、66さん!」
66「そうでしたねぇ、私も60さんと一日違いで上諏訪からやはり会津へ転入しました。
そして廃車は同じ47―5―14付けですしね。
たった二ヶ月ではファンの皆さんの目にもあまり触れなかったのではないでしょうか?
しかし面白い事に私と60さんは揃って旧・川俣線の沿線に保存されたのですよね。」
60「そうです。私は岩代飯野駅跡で現在は福祉センターが建っています。
66さんは終点の川俣駅跡でしたね。」
164「川俣線もC12にふさわしいローカル線でしたが、惜しくも早くに廃止になってしまいましたね。
ここでは白河だったかのC12が混合や1両の客車を牽いていたそうですが、お二方は川俣線には直接関わりはないものの、地元の同型機をとの希望で保存されたのでしょうか?
それにしても短い路線の沿線に2両も保存されたのは驚きでした。
66さんのその後は御存知の通りですが、それは御本人からお話ししていただきましょう。」

*60号機は川俣線廃止日に自力回送された。
その模様はあべくま様のサイト「お気楽鉄ちゃんの館」「国鉄川俣線最後の日」で紹介されています。
廃止当日の貴重な記録です、ぜひご覧ください。

231(S14日車 45―5宇和島廃車 愛媛県内子町保存)
「あの〜、すみません、四国の231です。
出番はまだのようですが、気になったことがあったので発言します。
川俣線を受け持っていたのは白河ではなく福島区のC12でした。
実は私はその最後の配属機だったのです。
川俣線の無煙化は41―10のことでしたが、この時点で福島にいたC12は私231と169、252の3両で、交代して朝福島より松川へ行き、通勤・通学時間帯は3両、日中は1両の客車に貨車をつないで往復していました。
その中にはかつての特急「つばめ」などに使われた専用客車のスハニ35なども一時使われたようです。私自身のことはまた後程、ということで・・・。」

*日中線でのスハニ35の使用については『鉄道ピクトリアル』217号(71―5増刊)に、「614レを牽いて熱塩駅で発車待ちのC12239」の姿が掲載されている。
撮影は昭和37年(1962)7―31となっていて、貨車2両にスハニ35が1両という編成である。

164「訂正と貴重な情報をありがとうございました。
そうだったのですか、実はある雑誌で形式入りプレートの美しい白河区の11号さんの姿が印象的だったので、てっきり白河と思っていました。
やはり実際にいた方があると助かりますので、間違いなどがあったらどんどん発言していただいて結構です。
さて自己紹介に戻りましょう。
64さんどうぞ。」

* ちなみにこの白河区(最後は宇都宮運転所 白河支所)のC12は45年10月18日で引退している。首都圏最後のタンク機であったが、高島貨物線や八高線、足尾線などの大きな引退行事に隠れてのひっそりとした最後だった。

64(S9汽車 50―2吉松廃車 宮崎県都城市保存
         
2004年11月22日「蒸気機関車ほか 鉄道保存車両について」やまてつ様ご提供

「九州は都城からやってまいりました。
いやぁ遠かった!とても自力では走ってこれないので甲種車両で運ばれたのですが、軸焼けしそうで係の人に付きっきりで油を差してもらいました。
足腰はやっぱり弱ってますねえ、もう年だァ(笑)・・・おっとグチをこぼしましたが、皆に会えて疲れも吹っ飛びましたよ!6さん、38さん、225さん、久し振り〜!」
(と彼らの方へ走っていってしまう64)
164「ちょっと、ちょっと64さん。はしゃぎすぎですよぉ。
でも無理もないですね、ずっと北海道で一緒だった仲間との再会なのですから・・・。」
(あわてて戻ってくる64)
64「いや、失礼しました。それではあらためて自己紹介します。
私も元来北のカマでして、16年函館〜24年標津〜36年築港と、これは6兄さんとまったく同じ履歴です。48―10の手宮DL化でもまだ働けると、国鉄の方に言われ、225さんとともにはるか南の吉松区へと転出したのが49年の5月、もうSLは九州でも末期のことでした。」
66「ほう、それはまたなぜ南九州までわざわざC12が移動したのでしょうか?」
64「なんでも政府から、使えるカマは検査期限がくるまで出来るだけ使う様に、との指示があったそうで、当時の吉松では構内入換と山野線用にC56さんが働いていたのですが、次々と引退し、一時南延岡区などからC12を転入させて代替したものがこれも期限切れとかで、ついに私達にお呼びが掛かったということらしいのです。
テンダ機の運用区間にタンク機で代用するというのもおかしな話ですが、走行距離を別にすれば元々C12はC56をタンク機にしたようなもので設計はほぼ一緒ですので、扱いには困らなかったようなのです。
まあ、それにしても北国から一転、南九州ですから5月とはいえ、暑さには閉口しました。」
164「そんな事情があったのですか。国鉄も赤字でたいへんだった時期ですから、SLにも無駄な費用はかけられなかったのでしょうね。」
64「で、結局私と225さんは50年2月まで籍を置いて廃車となり、ともに九州内に保存されたのですが、北海道最後のC12になったと思ったら、九州でもギリギリまで務めてしまいました(笑)。」
66「と、いうことは64さんや225さんは九州最後のC12ということにもなるんですよね!」
64「いや、そうではないんですよ。私たち吉松の実質的な最後は49年12月16日で、九州のC12の掉尾を飾ったのは高森線を走っていた熊本区の208、241さんの方で、最終運行は50年に入った3月9日でした。」
164「いずれにしてもこの4両の方が南での最後となったわけですね。そしてみなさん御健在というのも何よりです。」
64「ちなみに私は吉松から吉都線で下った都城市におります。末期の転入だったためか北海道装備のままで、スノープラウ昇降シリンダーや、二つ目、それに炭庫上の手すりなどもそのままです。」

* ちなみに昭和50年3月9日は、人吉区の8620も最終運行をしており、高森のC12とあわせてこの2地区が九州最後の蒸気機関車となった。
(本線の定期運行をしたという意味で、その後の区内での動きや廃車保留のための在籍の延長などではない)
さらにそれぞれの線からの帰区時間からみて高森から熊本へ戻ったC12の方が間違いなく遅いということから、この日走ったC12208が文字どおりの「九州最後の運行蒸気機関車」といわれている。
(九州最後の本線運転=さよなら運転は50―3―24の西鹿児島〜宮崎のC5557+C57175)


66「ありがとうございました。さて次は順番で行くと私の番となります。すでに周知の通りのことなので、自己紹介するのも手前味噌になりますが、簡単にお話します。
戦後すぐに信州・上諏訪に来てからはしばらく腰を落ち着け、短区間の旅客列車や周辺駅の入換えが日課となりました。
客車の無煙化が行われた後も岡谷まで回送を牽く仕事がしばらくあって、45年頃は仲間の67・171の3両で『諏訪のカラス』などのニックネームを頂いていました。
そして先程もお話しました様に、47―3に会津へと移動し、わずかな働きの後、川俣駅跡に保存されたわけです。
その後の現役復帰への道のりはみなさん御存知のようですので省略させていただき、次の67君にお話をつなぎたいと思います。」

        
   1994年3月15日 下館 営業開始前の試運転 66号 撮影TADA

164「66さん、それもさびしいので何か66さんがらみの話題などありませんか?
特に真岡線にこだわらなくてもいいのですが・・・。」
66「そうですねえ、まあC11325さんが仲間に加わってからは賑やかになったもののちょっと出番が少なくなってきたり、北海道への出張なんてのもありましたがもうこのへんは皆さん御存知ですし・・・。
あ、ひとつだけありました。
私のいる地元の真岡郵便局の風景印(特殊局印)が平成11年(1999)8月に図柄を変更した際、私がその図柄の一部に採用されました。
印の説明には『真岡線を走るSLと綿の花』になっていて、正面を向いて煙をあげる私の勇姿?が描かれています。
実はこの機関車は最初C11さんかと思ったのです(C11さんもすでにこの時入線していました)が、デフはありませんのでやっぱり私のようです。」
164「ほう、それは凄い! 郵便局の風景印には車両や施設など鉄道に関係するものが多く図柄に採用されていますが、蒸気機関車(復活・保存を含む)がその対象となっているのは2001年現在全国で30数局あるようで、その中に66号さんも入っているわけですね。」
66「ええ、C12としてはおそらく今の所唯一ではないかと思います。
なおC11さんも真岡周辺の郵便局で2001年に採用されましたので、ぜひこちらにお立ち寄りの際は真岡局と合わせて押印して下さい。良い記念になりますよ。」
164「そうですね、それは楽しいことです。
あ、押印には最低でも50円(消印のためハガキ料金が必要)の御用意をお忘れなく。」

*「実は私の図柄の印は一年と五ヶ月しかもたず、C11さんの図柄のものに2001―1―1に周辺の他局と一緒に再度変更されてしまったのです。
したがってC12の図柄の風景印をお持ちの方はたいへん貴重なものということになりますね。」(66談) 
新図柄は『SL(C11325)の動輪を枠に前方から見たSL』で、真岡局(図改)ほか真岡荒町・真岡中村・真岡西田井・芳賀山前・飯貝などの局で新規設置された。

66「ちょっと脱線してしまいましたね。では弟の67君、よろしく!」

67(S8日立 48中津川廃車 長野県茅野市市民会館保存
      
           2008年6月24日 撮影TADA
「一つ下の弟・67です。
兄さんとは40年代頃から上諏訪で一緒になりました。そ
れ以前も私は信濃大町や松本などにいましたので、ほとんど信州で過ごしてきました。
『諏訪のカラス』の頃は兄弟と171さんとで、回送ではありますが、結構長い編成の客車を引っ張って本線を走ったことが思い出です。
諏訪地区の無煙化とともに兄さんは遠く会津へ行ってしまいましたが、私は47―4―1付で岐阜県の中津川区へと移動になりました。
岐阜とはいっても信州と縁の深い中央本線ですから故郷を離れたという感じはしませんでした。
しかし今度の仕事は中津川の入換えはともかく、明知線という職場は名にしおう急勾配を持つ線でして、数両の貨物でも目一杯頑張って、へとへとになる毎日を送る事になってしまったのです。」
66「ほう、67君は中津川へ行ったのでしたか。
私は先(47―3―22)に会津へ旅立ちましたので知りませんでした。」
67「ええ、それで1年程働いてお役御免となり、さて私はどうなることやら・・・と心配していた所、保存が決まり運ばれた先は、なんと懐かしい上諏訪の近くの茅野市でした! 
それも中央本線を見下ろす茅野駅の裏手の市民会館だったので、再びレールを見ながら余生を送れる事になったのです。
露天で屋根もなく、時々気紛れ?で向きなども変えられておりますが、場所柄人の目は行き届きますので状況はまあまあ、といったところです。
皆さんも茅野駅を通った際にホームから御覧下さい。お待ちしています。」
164「茅野駅のそば、というとどのあたりなのですか?」
67「はい、正面の出口とは反対側ですので上りホームから見えます。
時間がなければそこからでも写真ぐらいでしたら撮れますのでよろしくお願いいたします。」
66「スーパーあずささんとの出会い、なんてのもありそうですね。
いつまでも自分の働いた鉄道を見渡しながら毎日を過ごされているのは機関車にとってはこのうえない幸せではないでしょうか?
そうそう、67さんの現役時のお写真が事務局にありましたので御紹介しておきます。」
 
            
        中津川の庫でお役ご免となって休む67号(48年撮影)

164「故郷の近くに戻ってこられたのはなによりでしたね。
他に67さんは何か思い出などありますか?」
67「思い出というほどのものではありませんが、私が中津川時代に恵那駅で働いている姿がJR東海さんのオレンジカードの図柄に採用されたことがあります。
ちょっと前は各社ともこういったシリーズものの発行が多かったようで、このカードは88年の『SLシリーズ7』でした。」

        
     *茅野駅のホームから見られる67号、横向きの時代(50年撮影)
       「今は屋根が付いたので雨に濡れずに済みます」(67談)

164「初期の国鉄時代にもSLシリーズはありましたが、なぜかC12は選ばれていませんよねえ。
そういった意味でもこれは貴重なことです。
さて発言に戻りましょう。60番台は5両目の保存機となるのが69さんですね。」

69(S9日車 48―10中津川廃車 愛知県安城市保存
「は〜い!67兄さんとは明知線つながりの69です。
今日は保存地の安城から来ました。
ということは私が大井川鉄道には一番近いC12の保存機になるのかなあ?

       
    2002年6月11日 「五条川鉄道写真館」吉野富雄様ご提供
「安城市へ出張した折りに撮影した画像がありましたので、勝手ながら送付させていただきます。
現在はご覧の通り屋根付きの場所に保存されており、状態も良好のようです。
柵に囲まれていますが、隣接する図書館に申し出れば、柵内に入って見学することもできるそうです。」


 それはさておき自己紹介します。
私も中部地区をあちこち移動していまして、松本や金沢などにもいました。
昭和10年代からしばらくは糸魚川におりまして、そちらにいる88さんやトップナンバーの1号さんなどと一緒に大糸線などで働きました。
中津川ではD51さんと肩を並べてファンの人気を集めたこともありました。
ここで最後まで頑張り、48―10―7付けで廃車となったはずですが実際は木曽福島に移りまして49―4まで貸し渡しという形でお手伝いをしたような記憶があります。
したがって本州最後のC12はたぶん私になるのではないか?と思っています。」
164「いや、それは69さんの勘違いですよ。貸し渡しになったのは確か230さんでしょう。」
69「そうだったっけ?何か記憶があやふやなので、この点は事務局の方で調べていただけますか?」
164「わかりました。早速記録など見てみましょう。」
 
           
    *「さあ、仕事だ!」と出番待ちの69号 中津川区にて(48年撮影)

67「ところで明知の最終はいつだったっけ?
なんか予定もなくDLに代わってしまったようだったけど・・・。
確か最後の頃はもっぱら230さんが使われていたので、覚えていませんか?」
 
       
      1973年5月5日 中津川の庫で休む69号 撮影TADA

230(S14日車 49―7木曽福島廃車 愛知県西尾市保存
「末期の中津川のC12は入れ代わりが激しく、結局明知線最後のメンバーは69さんと244さん(厚狭から)と加古川からの私230の3両で、長年阿木の勾配で活躍された方々はみな引退なされていました。
さて最後のことですが、明知線でも当初さよなら運転の計画もあったらしいのですが、結局日程も決まらぬまま、48年10月11日を持ってC12の運転は突然終了してしまったのです。」
164「ほ〜あの人気のあった線の最後はあっけなかったんですねえ。」
230「そうなんです。同じ年に本線(中央)の方は長野局と名古屋局それぞれでD51のさよなら列車を運転して華やかだったのに、やはり当局もファンもそれで満足してしまったのか、支線まで予算がなかったのか、とにかく私たちC12の働きに対する感謝の気持ちはどうしたんだ!と今になっても腹が立ちます!!」
69「まあまあ、230さん、安全弁が噴いてますよ、落ち着いて(笑)。
確かに残念だったけど、当時もいろいろ事情があったのでしょうから納得しましょう。
それより最後に残った3両の仲間がみんな保存されたこと、また活躍した沿線の起終点(恵那・明智)にもC12がちゃんと保存されていることに感謝したいものです。」
230「そうですね、年甲斐もなく興奮してしまいました。」
164「ところで69さんの現状は?」
69「ああ、そうでした。私は隣県の愛知県安城市の総合運動公園というところにおります。
同僚の230さんも同県の西尾市にいますし、晩年はまあまあといったところですね。」
       
  2006年4月 西尾市西尾公園 屋根付きで保存されている230号機 撮影TADA

66「ありがとうございました。お話を続けましょう。
次の方は、おっ、これまた明知線に関係していた方ですね。74さんどうぞ。」

74(S9三菱 47―9中津川廃車 岐阜県恵那市役所保存
       
   2001年12月27日「蒸気機関車ほか 鉄道保存車両について」やまてつ様ご提供

「明知線の起点、ああ今は明智鉄道でしたか、その始発駅の恵那にいます74です。
東北育ちでしたが30年代に中津川の一員となり、47年まで働きました。

       
 1971年7月22日 恵那 明知線463レを引き発車を待つ74号 撮影TADA

最後に一緒だったのは42、69、209、230さんで、69と230さんには感動の再会です。
今は屋根付きの市役所の近くなので環境はそこそこよい、といったところです。
とりたてて特徴などはありませんが、私は17両しか製造されなかった三菱製C12の唯一の生き残りということです。」
*74号は平成元年に同市内の「ふるさと広場」に移設されている
66「おお、そうですか!ということは5社で製造されたC12のうちで、川車と三菱製はともに唯1両ずつしか残っていないということですね。これは貴重なことです。
どうかお体は今後とも大切になさってください。さて次は・・・!
あぁ、これは痛々しい、85さん大丈夫ですか?」

85(S9汽車 44大宮工廃車 埼玉県和光市第四小学校保存
「ええ、なんとかやってきました。
とはいってもとても皆さんにお見せできるような体ではなくてお恥ずかしい限りです。
(と、からだのあちこちをさする)」
164「これは、なんといっていいのか・・・各地の静態保存機ななかにはそうとう酷い状態になってしまっているものが多くなっているとは聞いていましたが、85さんもそうでしたか。」
85「まあ・・・、保存に尽力していただいた方々には何もいうことはないのですが、その目的・場所や保存後の維持などが曖昧だと私みたいな『放置』になってしまうのでしょうけれど、もうあとどれくらいC12の姿をしていられるかわからないのでこの現状を伝えたくて頑張って今日はやってきた次第です。
一応簡単な履歴を申し上げておきますと、戦前から30年代初めまで木更津にいて、久留里線などを走り、その後は大宮工場の入換機となりました。
今日お見えの29さんの同僚ということにな
ります。こんな地味な生涯でしたので、あまりファンの方に写された記憶はありません。
44年に役目を終えた時、29さんとともに早い時期にもかかわらず、保存されたまではよかったのです。
場所は北足立郡成増町(現・埼玉県和光市)の小学校で、チビッコの教材と遊び相手なら楽しい余生を送れると思ったのが間違いでした。
校庭の片隅で柵も屋根もなく、いつしか子供たちにもあきられ、先生などの目の届かない所だったので、部品もなくなり御覧の通りです。」
 
      
    痛みの激しい85号 煙突の前に鐘(平成8年=1996年撮影)

29「久し振りに会えたと思ったら、85さん、ぼろぼろじゃあないですか。
ロッドの赤色は目立つけど(85の回りをぐるっと見て)、うわぁ蜘蛛の巣まではっている!
一体管理の方は何をやっているのでしょう。
説明板もないし、何のために85さんがここにいるのかさえわからない・・・・。あまりにひどくて(涙)。」
164「小学校内ということで、昨今は見学もあまり自由にならないとはいえ、ここまで放置状態だとファンの方もなかなか来てくれないでしょうねえ。」
85「でも反面教師ということで、ぜひこの保存の実態を多くの方に見て頂きたいために私は出席しましたので、皆さんこの体の状態を伝えてやってください。カラ〜ン、カラ〜ン!」
29「おっ、その音は工場時代に付けられた汽笛代わりの鐘ですね。
それは残っていましたか。ええ私のもありますよ!」
164「貴重な特徴のある設備が残っていたのはお互いに良かったですね。
その鐘の音は保存の在り方に対する現代社会への警鐘としたいものです。」

※85号機は2011年よりボランテティアの手により修復が行われている。
       
 2012年6月12日 修復作業中でシートなどが掛けられている。撮影TADA

66「85号さんのお話を聞いていてみなさん少し元気がなくなったようですが気を取り直していきましょう。次は88号さんです。」

88(S9汽車 47―10糸魚川廃車 糸魚川小学校保存
       
             2007年10月3日 撮影TADA
「日本海側の保存は私だけでしょうか?
時間はかかりましたが大糸〜篠ノ井〜中央西〜東海道経由で今日はやってきました、糸魚川の88と申します。
履歴は69さんとほぼ同じでずっと糸魚川で過ごしました。
1号さんは30年代前半に高岡から移っていらっしゃいましたが、具合がおもわしくなかったのかあまり活躍せずに37年に廃車となり、特に1号という理由も関係なく解体されてしまったようです。
考えてみれば1号さんが廃車の宣告を受けたのと同じ月(37―7)に、ちょうど鉄道80年記念で開園が予定されていた『青梅鉄道公園』に展示される機関車(E10 2・9608・C11 1・8620・・8月)の方々が整備のために大宮へ転属しているんですねえ。
C11さんと同じタンク機だったのが災いしたのか、同じトップナンバーでもC12の方はひっそりと解体になってしまう運命に、ちょっとがっかりしたものです。
10年後の梅小路の時もC12は保存候補にも選ばれなかったし、C11さんとC56さんとの狭間のような存在だったのですかねえ・・・(涙)。」(蒸気をもらす88)
85「まあまあ、88さんがっかりしないで・・、確かに私達は地方の簡易ローカル線で生涯を送ったものですがその使命を全うした喜びと達成感を抱いていればそれでいいじゃないですか。
それに今日こうしてお互い現存して会うこともできたし、何より66さん、164さんが現役でいて下さることで過去の不遇なことも忘れられますよ!」
88「・・・そうですね。過去の事はもう忘れましょう。
え〜とどこまでお話しましたっけ・・・あ、糸魚川でのその後ですが、47―3に69さんが中津川へ行くのを見送った後、その10月に私は廃車となり、当地の小学校に設置されました。」
        
         1972年8月 糸魚川駅          71年夏 糸魚川
      廃車後4ヶ月後赤サビた姿。「おミ〜ちゃんのホームページ」おミ〜ちゃんご提供。

66「私とおなじゾロ目ナンバーの88さんには親近感を覚えますね。
あ、222さんもいましたね・・・。ところで晩年の糸魚川での日課というかお仕事はどのようなものでしたか?」
88「はい、糸魚川構内の入換と大糸線平岩までの貨物が1往復といったものでした。
区にはC56さんもいましたが、入換えの主体がC56さんで、本線運用がC12だったのです。
だから仕事のあまりない時期はC56さんはよく小海線などへの応援に出掛けていたようです。」
66「ああ125さんなど結構有名でしたもんねえ。そういえば大糸線には南部に別の区のC56も入ってきたようですが・・・。」
69「ええ上諏訪に集約されていたC56さんが信濃大町へ出張してきて貨物を牽いていました。
でも大糸線内ではダイヤの都合で私たちと顔を合わせることはなく、糸魚川まで来ても小1時間程で帰ってしまっていたので、なかなか落ち着いた話はできなかったのです。」
         
           73年夏 保存直後で屋根がありません。
   なぜかナンバーは緑色、まだペンキベタベタにはなってないころの写真です。
   この後、保存状態を考慮し、屋根をつけて、ペンキベタベタになったようです。
    「おミ〜ちゃんのホームページ」おミ〜ちゃんご提供。

※その後校舎改築工事に関連して保存場所が移動した。
         
             2012年7月21日 後ろは新幹線高架

164「お話の途中ですが、約半数の方の発言をお聞きしましたので、ここでしばし休憩時間をとりたいと思います。
別室に軽食として大井川のおいしい水をたっぷりと御用意しておりますのでぜひお召し上がり下さい。
またお腹の空いた方には大鉄さまの御好意で、石炭もどうぞ。」
(がやがやと皆が部屋を出ていく。)

第一部 終わり

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