煙の座談会
C11 70年の生涯を語る

〜保存機たちの四方山話〜
第2部 東北編2

「鉄・街・道」831列車様作

撮影者は特記ないものは作者によるものです。


244号機会津若松発車!

美しき会津の里のC11 会津・只見・日中線
 
227「さていよいよC11といえば、外せない会津地区の皆さんの登場です。
近年は地元の方の取り組みもあって2年続けて只見線に蒸機運転が復活するなど現代のファンにも注目されているとお聞きします。
そのへんのところもお伺いできれば嬉しいです。」

325「只見線の運行に関してはその当人が私なのですが、昨年・今年と2年続けて真岡から会津へ出張して煙をあげられたことはたいへん嬉しかったと思っております。
これもひとえに運転実施に御尽力頂いた地元の協議会の方々、並びに各関係鉄道機関の方々、そしてなにより私に会いに(乗りに・撮りに)来ていただいた多くのファンの皆さんのおかげだと御礼申し上げます。
またこの会津の地が『C11のふるさと』として現役時代からファンに愛されてきたこともあらためて感じた次第です。
この運転に関してはもうすでに皆さん多くのことは御存知のようなのでここでは割愛させていただいてもよろしいでしょうか? はい、必要であればお話はいたします。
また325本人は現役時にはあまり会津とのおつき合いがなかったので多くのことはお話しできませんので聞き役に徹するつもりです。ではよろしくお願いいたします。」

227「まずは会津地区に関係された保存機の方ですが・・・、63・64・80・117※・240※・244・247※・254・312・324※・351、それに325さんですか。やはり多いですね。
これだけでも同窓会が出来そうです。でも今日御出席の方は少ないようなのですが、はて?」
325「詳しくは会議の中で出てくるとは思いますが、その名簿にあがっている方の中には保存されたけれど解体されてしまった方や保存が決定しつつも中止になってしまった方も含まれているのです(※マーク)。
だから今顔を合わせている方々は7両ということになりますか。
いや、324さんもおられるようなので8両ですね、失礼しました。」
227「それとごく短期間ですが、保存機の245さんと372さんも会津におられたということです。
今回はそれぞれ北東北・関東の部会に御出席いただいておりますのでお時間があればまたお話を伺いたいと思います。
それでは始めましょう。まず地元に保存の63号さんからどうぞ。」

63(S10川車 50―1会津若松廃車 福島県喜多方市日中線廃線跡公園保存
               
                    2001年3月19日 撮影TADA

「先程石巻の方でもお話したのですが、あらためて会津にも参加です。
東北一筋のC11ですが、晩年の有名線区全てで活躍できたのは考えてみれば幸せなことでした。
おまけに日中でのさよなら牽引や郡山工場の最後の出場車にもなれましたし・・・。」

      
        1974年9月 朝日を浴びて熱塩で転線中               加納駅で発車待ち     


64(S10川崎 61―5梅小路廃車 京都市梅小路蒸気機関車館保存)
               
       1977年4月1日 梅小路でD511と並んで煙をあげる64号機 撮影TADA

「いや〜兄さん御無沙汰です!兄弟機ながら会津では30〜40年代の10年ほど  一緒に過してからはすれ違いの日々でしたね。
兄さんはずっと小出口の只見線で働いており、46年に全通した時は『久々に顔が見れるな』と喜んだのですが、結局蒸機の運用にはあまり影響のない開業になり、兄さんが只見の無煙化で会津に来るのかと思ったら新津へ行ってしまい、その間に私は早々に梅小路入りしてしまったのでした。
ちょっと早い隠居暮しは面映かったですが、こうしてまた会津でともに働いた仲間と再会できるとは思ってもみなかったことで、たいへん嬉しいです。」

               
            1971年7月、会津若松〜堂島間 撮影 会津のけむり様

325「64さん、もう皆さん御存知とは思いますが簡単な自己紹介もお願いします。」
64「おおそうです!これは失礼しました。私も兄さんと同じ昭和10年川崎製です。
戦前は北海道の室蘭におりましたが、ほどなく内地へ戻り、24年には仙台そして会津若松へと移動し、ここで動態保存機として選定されました。
まだ多くの仲間が働いていた47年の8月に移動の内示があり、梅小路に移ったのです。
だから63兄さんとは会津での再会はなりませんでした。」
227「一番違いの兄弟機でも微妙にすれ違っていた、ということなのですね。
ところで63さんの現状はどのようなものですか?」
63「はい、私は当初喜多方駅の東方の線路際に置かれていました。
朝な夕なに後輩たちの活躍を眺めつつ余生を送っていましたが、昭和59年(1984)3月に日中線が廃線になってからはその廃線跡の緑道に出来た公園に移動しました。
したがって今度は喜多方駅の西方からやや北に行ったところになります。
ここでもそうなのですが、露天なので状態はあまり良くないです・・・。」
64「どうせなら途中の線路跡なんて中途半端なところでなく、懐かしい終着駅の熱塩駅のそばにすれば良かったのに・・・、所有者の違いとかいろいろあるのだろうけれど、せっかく駅舎も保存して記念館になっているのだから機関車も合わせて保存した方が管理や整備も行き届くだろうし、何より日中線という鉄道を記念するのなら、やっぱりそこを走っていたC11もいた方がいいと思うのだけど・・・、まあいろいろ難しいんだろうねえ。」
325「展示の目玉?にもなるでしょうしファンや訪問の方が増えるかもしれないのですから、ひとつ熱塩加納村さんに御尽力いただきたいものですね。」

※ 日中線記念館 昭和62年(1987)1月19日開設
昭和59年(1984)3月31日に廃止となった日中線熱塩駅の駅舎を整備、片側1面ホームとともに保存し、内部は鉄道関連の資料を展示した記念館となっている。
また元の機回り線跡に除雪車と旧型客車も展示(屋根付き)している。
惜しむらくはここで活躍した蒸気機関車がおらず、またホーム周辺の線路も撤去されている。
すぐ前はゲートボール場など地元の人たちの憩いの場となっているが、もう少し鉄道関連施設を残しておいても良かったような気がする。
   
     1974年6月 熱塩 車掌さんの誘導で機回し          2003年4月 記念館になった熱塩駅
                           撮影 会津のけむり様

325「63さん64さん、ありがとうございました。さて次は遠く岡山県の津山からいらっしゃった80さんですね。」

80(S10日立 50―1会津若松廃車 岡山県津山市昭和町南小学校保存)

「どうもこんにちは、岡山県の山間部の城下町・津山からまいりました80です。
姫路からながめた新幹線もいつのまにか世代交代をしており、『レールスター』さんなどやけにお顔の長い方を拝見してびっくりしながらやってきました。
簡単に私の経歴を紹介しますと、元来は中国地区のカマでして、最初は四国に配置され松山などにおりました。
昭和17年に備後十日市(のちの三次)に移り、戦後の23年7月には津山へ移動、そこで約25年間津山線を中心に働き、同線の無煙化に伴い移動となって皆さんの会津にやってきたのは昭和48年の4月のことです。
以後会津の無煙化の49年秋まで過しました。
廃車後は長く働いた御縁もあって津山の方々からの希望で故郷に帰って保存されたのは嬉しかったことです。
57年には国鉄OBの皆さんなどによって保存会もでき、定期的に体を磨いていただくなど幸せな余生を過させてもらっています。」
                       
                 *若松の庫で一休みする80 49年9月 
                  「会津での仕事もあとわずかの頃です」

63「80さん、御無沙汰です!会津では一年半余り御一緒しただけですが、すっかり馴染んでしまいましたね。
80さんが会津に来たとき、あちこちに装飾の跡があったのは津山でのお別れ行事に参加された名残りだったのですね。」
80「そうです、なぜか私は幸運でして、昭和38年に津山線でお召し列車を牽引し、無煙化の際も長く在籍していたことと、元・お召し機ということもあって『さよなら列車』も牽かせていただきました。
その際デフにペイントされたのが『飛翔する鶴』の姿で、これは地元津山城の別名・鶴山城にちなんだものだそうです。
会津に来てからはそれは消されましたが、あちこちに白いラインやステンレス板の装飾なども残していました。
なぜか調子がよかったのか新参者の私が会津地区無煙化の記念列車の牽引までさせていただいたことは過分なことと感謝しております。」
227「そうでしたか、80さんは津山でも会津でも愛されたC11だったのですね。」

325「次の117さんですが、会津よりむしろ石巻の方になじみのある方でもあり、先程も話題に出た通り保存後解体されたとのことなので、残念ながらお話は伺えません。そして次の240さんもなのですが・・・。」
63「240さんも惜しいことをしました。
彼も私と同じで東北をあちこち移動した苦労人で、最後は小牛田で一緒になり49年5〜6月にかけてともに会津へやってきたのです。
ここが最後の地と思い、共に頑張ったかいあって廃車後の引き取り手が現れ保存もされたのですが、今の私の状態はともかく240さんの行かれた赤穂の地では長生きできなかったのでしょうかねえ。」
325「聞けば赤穂線もC11が活躍したところらしいのですが、やはり同一形式でも縁のカマでないことも地元での愛着に影響したのでしょうか。
赤穂の地で無念の最後を遂げた240さんもC11義士のひとりだと思えてなりません。」
* C11240(S18日車 50―1会津廃車 兵庫県赤穂市赤穂城南公園に保存後、1998年解体)
昭和18年大館〜秋田〜46年米沢〜48年小牛田〜49年会津若松 解体は1999年10月の説もあり。

                      
                         元気な頃の240

325「それではつづいて柳津の244さん、おおまさしく会津の線路際におられるのですね!」
244(S18日車 49年会津若松廃車 福島県会津柳津駅前保存)
                                        
        1974年7月14日 保存されて間もないころ、その後上屋もつけられた。撮影TADA 

「温泉と虚空蔵尊の町・やないづから来ました244です。多くの皆さんと同じく私も東北育ちでして、戦後は秋田〜青森などを回っていました。
会津に来たのは44年の6月のことで、青森の方では『ヨンサントオ』が済んでD51さんなどが大量に廃車となりましたが、会津ではC11の仲間がまだ大勢いてほっとしたのを覚えています。
またここを訪れるファンの方も小型機に目を向ける事が多くなってきたようで、こんなにもSLファンがいたのか!と驚きました。」
   
  1973年3月25日ターンテーブルに乗っていざ出庫       1973年4月、西若松駅発車 
             撮影TADA                      撮影 会津のけむり様

325「今日は弟さん(245)も御出席ですし、兄弟揃って健在なのも嬉しいですね。
                  
            1973年4月、会津区一休車4月末に郡山工で検査後→小牛田区へ転出 
                            撮影 会津のけむり様

よろしくお願いします。次は会津線側の駅近くに保存の254さんですね。」

254(S19日車 50―1会津廃車 福島県会津田島駅横保存)
                
                          撮影 「会津の汽笛」会津C11様
「南会津の観光拠点・田島から来ました254です。
周辺には尾瀬・檜枝岐・スキー・温泉といろいろ楽しみがあります。
浅草からも直通がありますので四季を問わずお待ちしております!」
325「どうしました?なかなかPRがうまいですね。」
254「いや今は国鉄・JRではなく第三セクターの会津鉄道となった田島駅の横におるものですから不思議と営業活動にも力が入るようになってしまいました。
いや保存機関車もただ鎮座しているだけではいけない時代でして・・(笑)」
227「なるほど私達も見習いましょう。ところでまだ254さんの自己紹介を聞いておりませんでしたが・・・?」
254「ああすみませんでした。私は御覧の通り門鉄デフ(小倉工場式切取りデフ K―7型)を付けていることからおわかりのように、長年九州で働いていました。
松浦線での役目を終え早岐区(佐々留置)の片隅にいたところ、思わぬ辞令が下り会津へとやってきました。」
80「あれは48年の春頃でしたか。津山から転属したての私でしたが、見慣れないデフを付けた仲間がいるなあ、と思ったのが254さんでした。
もうかなりのメンバーチェンジが頻繁に行われている時期でしたので、あちこちから転入してくるのには驚きませんでしたが、はるばる九州からおいでとは、つくづく国鉄の規模の大きさに驚いたものです。」
244「私は48年の11月に廃車になりましたから、254さんとは七ヶ月ほど一緒に働いたわけですね。」
254「みなさんによくしていただいて感謝しています。
会津に来てから門デフはそのままでしたが、運転室には旋回窓が付き、前照灯はシールドビームに代えていただ
きました。
雪国で初めての会津の冬をなんとか乗り切り、時にはラッセルなどの後押しもしました。
九州にいたら出来ない体験でしたが、これもまた良い思い出です。」

     
1974年2月11日 門田〜西若松 撮影 会津のけむり様   1974年3月20日 上三寄 撮影TADA

325「今は会津田島の駅近くにいらっしゃるのですね。なにか保存会のようなものも出来たとか・・・、またのちほどお伺いしましょう。
(資料をめくりながら)あっと、254さんの前に247さんのお名前がありましたがどうやら保存が内定しながら結局実現しなかったようですね。
やはり会津に馴染みの方のようですが、何か御存知の方はいらっしゃいますか?」
254「ほ〜そんな方がおられたのですか!247さんというと7番違いの兄貴ですね。
そういえば私と近い番号の兄弟には不思議と会津に浅からぬ縁があったようで、ほとんど西国暮らしだった私が最後に会津に来たのもそのことがあるのかもしれません。
二つ上の兄252は47―5に奈良から転入して活躍しました。
また二つ下の弟256は43年の9月に会津に転入してきたと聞きます。」
64「そうそう256くんは宮古から来たんだ。あちらでは時々ラサ工業のC108おじさんの検査時の代役を勤めていたそうで、C10おじさんがかつて働いていた会津に来てびっくりしていたよ。」
244「で、代役がいなくなって困ったラサさんのところへ行ったのが、会津で43年7月末に廃車となった247くんでした。単純にいえば宮古と会津でのトレードのように見えるけれど、廃車譲渡という部分があるのでこのような交換が必要だったのでしょうね。」
254「その247さんはラサでの無煙化まで役目を果たし、地元宮古に保存が内定していたのだそうだけれど、結局ダメだったようですね。
でも彼の活躍があったからこそ今のC10さんもあるのだと思います。
そして皆さんこの会津若松という絆で結ばれているのですね、いや〜良い話です(涙・・蒸気をもらす254)。」

※幻の保存機247 S18日立製 43―7―31会津若松にて廃車後、ラサ工業へ譲渡。
昭和51年4月8日に運用を終了、廃車後宮古市内の小学校に保存が内定しつつも結局解体。
              
        1976年3月26日ラサ工業宮古工場で保管中の247号機 撮影TADA

※C11256 S19日車製 43―9―19宮古から会津へ転入、47―10―2廃車。
              
               *役目を終えて庫で休む256(47―12撮影)

325「さて番号ではしばらく飛んでしまいますが、次に会津にお馴染みの方というと・・・、ほら312くん、君の番だよ。」
(会場のあちこちを走り回っていた312が蒸気をふいてやってくる)
312(S21日車 50―1会津若松廃車 三重県松阪市ドライブイン『あら竹』に保存後、昭和63年(1988)7月、大井川鐵道にて動態復元)
「あ、はいはい!どうもすみませんです。
今日は大鐵が会場ですのでどうもお世話する方に目がいってしまって自分のことを忘れていました。ここはどこの集まりでしたっけ?・・・え?会津、おおそれでは会話に加わらなければいけません。
私312も会津では古株でした。
仙台にも戦後すぐにいましたが、まもなく会津に移り、結局49年の無煙化まで離れずにおりました。
廃車後は三重県松阪市の方が個人で貰い受けて下さり、経営するドライブインの横でお客様へのPRなどをしつつ余生を過していました。
ところが移転などの計画が立ち、ちょうど227号さんに続く機関車を捜していた大鐵さんの目に止まり、大井川へやってきたのです。
私を可愛がってくれたドライブインの親父さんは松阪駅周辺で駅弁も販売しており、『日頃お世話になった鉄道と蒸気機関車への恩返しだ』と当時の国鉄にかけあって廃車になった私を自費で貰い受けてくれたのです(涙)。
このあたりのお話はその親父さんの会社のHPにもありますので、ぜひ皆さんに読んでいただければ嬉しいです。」
227「312さんは大井川に来た時も、状態が良かったのには驚きました。」
312「会津から松阪、そして大井川といつも暖かい皆さんに守られて今も煙をあげられる私は幸せですよ。
兄貴(311)も健在でしたし嬉しい限りです。」
254「お互い、お守をしてくれる方々がいる、というのは心強いですもんね、静態・動態に限らず・・・。」
※312保存の話は『駅弁のあら竹』のHP「おじいちゃんの機関車」に出ています。

312「あ、そうそう私現役時代に映画出演したことがあります。
昭和46年4月に公開された東宝の『誰のために愛するか』という曾野綾子さんの原作で、主演は当時の美人女優、いや今もお美しいですが(汗)、酒井和歌子さん、他に加山雄三さんや森光子さんなども出ていらっしゃいました。
冬の会津線でのロケでしたがもう夢中で頑張りましたよ。」

        
             若松の庫で整備中      湯野上発車!1974年7月13日撮影TADA

227「312さんは良い想い出をお持ちなのですね、ありがとうございました・・・
おや、顔は見えないのだけれどボディーだけのぞいている方は・・?」

324(S21日車 47―5和歌山廃車 京都府田辺町に保存後、解体→運転台部分のみカットモデルとして梅小路蒸気機関車館で展示)

          
         2004年10月16日梅小路蒸気機関車館 撮影TADA

「いや、お恥ずかしい(汗)324ですが、一応保存車とはいうものの今は梅小路のカットモデルとなってしまい運転室と炭庫の一部しかないんですが、今日は64さんの後にくっついて来てしまいました。
私もかつては会津にいたものなので懐かしくて・・・。」
312「そうでしたか、まあ部分とはいえプレートもあるし大丈夫ですよ。
どうぞ参加してください。でも324さんがそんな姿になってしまったのはどうしてなのですか?」
324「はい、まず私の生い立ちですが、64さんや312さんも覚えておいででしょうが、戦後からしばらく会津におりました。
44年に和歌山へ移り、みかん輸送のお手伝いや入換え作業で過し47年5月に廃車となりました。
その際同じ時期に無煙化になった片町線の方でも“C11の保存を”という声があり、私が選ばれたわけです。
当初地元の希望は片町線で長く働いた奈良区の175さんだったのですが、彼はまだ働けるということで小牛田へ転出してしまったのです。
町の展示機関車になるより最後まで蒸機の力をお役に立てたいとの気持ちもあったのでしょう。
残念ながら彼は保存にはなりませんでしたが立派に役目を果たしたといえます。
一方175さんの代わりに選ばれ片町線沿線の田辺町の児童館に置かれた私ですが、しばらくは何ごともなく過しておりました。
平成9年の田辺町から京田辺市への市制変更でも田辺駅前(現・JR京田辺)に場所を確保していただき市のシンボルとしてお役に立てるな、と思ったものでした。
しかし相次ぐ移設や露天展示による老朽もあったのでしょう、理由はいまもって定かではありませんが、結局解体の憂き目には会わずに済んだもののこんなスタイルで梅小路に展示となってしまったのです。」
227「それはたいへんでしたね、保存機関車も年月が立つと維持管理にもいろいろ問題が起きてくるので324さんの例のようなことも発生してくるのでしょう。
まあ一部とはいえちびっ子に機関車の構造を教える教材となって梅小路で頑張っておられるのはせめてもの救いになるでしょうか。」
324「でもやっぱり『顔』が欲しいなぁ・・・。」
(司会の325が324をながめながら)
325「兄さん、近くにいながら会津ではついに一緒に仕事は出来ませんでしたね。
いや〜それにしてもまた会えるとは思っていませんでした!40年代初めに和歌山の方へ移られたと聞きましたが、ずっと同僚だった323兄さんはその後もしばらく会津で頑張っていましたね。
確か47年7月に廃車となったようですが・・・。
私も真岡で健在な限り、ひょっとして西へ出張することもあるかもしれませんので、その時はぜひ梅小路を訪ねたいと思います。」
(ここで227へ資料が渡される)
227「え〜いま事務局の方から資料を貰ったのですが、それによりますと会津地区に配属されたC11は323・324の御兄弟機をもって嚆矢とする、とのことです。
おお、そうすると324さんは私たちの礎となった貴重な存在だったのですね!」
325「兄さん、そうだったのですか!それがわかっていたなら何としても元気な姿のままでいてほしかったです。
今回の復活運転を弟の私が勤めたのもそんな遠因があったのかな、とあらためて思いますね。」
     
  71年10月のミステリー列車の吉野口ー五条の前機に         五条駐泊所にて
   使用された際の撮影です。     撮影 「むかし鉄・発//いま鉄・行き」品川530様

227「兄弟機での再会、何よりです。さて会津地区関連の保存機もラストの方になりました。
仙台の351さんよろしく。」
351(S21日車 47―10会津若松区廃車 宮城県仙台市ガス局跡保存後、JR仙台車両所に移設)
              
      1995年9月 利府の車両基地に保管されていたころ。この後2003年に整備されました。
         「蒸気機関車ほか 鉄道保存車両について」やまてつ様ご提供


「どんじりになりましたが、仙台から来ました351です。
戦後生まれで角形ドーム&砂箱です。私の履歴はほぼ312さんと一緒です。
24年に仙台にいましたが、以降はずっと会津で過しました。
廃車は比較的早く47年の10月でした。ちょうど鉄道100年の記念日の頃になります。
最初はそれを記念して造られるはずだった『東北鉄道記念館』?に展示される車両としてD51さんやC58さんなどとともにその予定地である市内のガス局跡地に置かれていました。
その後いろいろありまして結局施設は建設されず、跡地にも新しい建物が立ち、行き場を失っておまけにあちこち傷んできたので、JR仙台支社さんが心配してくださり、再び塗装などの整備をしてくれました。
今はかつての仙台鉄道管理局との馴染みもあってか、新幹線の並ぶ車両所の横に住まわせてもらっております。」
325「東北鉄道記念館って、確か仙台駅ビル内にあったような気がするのですが・・・?」
351「ああ、あれは東北新幹線の駅ビル内に設置されたもので残念ながら機関車などの展示のない資料館のようなもので、名称は『ロコモ』だったと思います。
確かに東北にちなむ鉄道資料や機関車のプレートなどが展示してあったようですね。
会津でもお馴染みだった19号さんのプレートも飾ったと聞いていますが、いつとはなしになくなってしまったようですよ。
もっとも私が展示されるはずだった方は夢物語に終わってしまいましたが・・・。」
325「まあJRさんの施設にとりあえずはおられるのですから、維持管理はなんとかやってくれるでしょうし、いつかは本当に記念館が実現するやもしれませんので、それまでお体は大切になさってください。
(ここで資料が渡される)
は?ああそうですか、351さんは仙台に保存されるきっかけがあったのではないですか?」
(資料を351に見せる325)
351「ああ!思い出しました。私は47年の夏(8/2〜27)に仙台で開催された鉄道100年記念の『東北鉄道博』に展示車両として選ばれてファンの注目を浴びたことがありました。
もっとも主役はC5746さんやD51892さん、C58365さんや、特別に北海道から招待された美唄の4号機(4110)さんだったようで、C11なんてまだ会津や石巻にいっぱいいたからあんまり珍しくなかったかも・・・。
まあ折からのSLブームでしたから、それなりの楽しみもありました。」
             
           1967年.12月 会津線(当時)滝谷 撮影「轍楽之路」田駄雄作様

忘れられない仲間たち
325「351さんの今後の動向にも注目したいところですね。ところで昭和45年から48年、そうSLブームの頃で、会津地区もかなりのファンの方がお見えになっていた頃のメンバーはみな忘れられない方々ばかりですし、よく趣味誌でも沿線での活躍の姿をお見かけしました。
きょう御出席のみなさん以外のお名前だけ御紹介しておきます。
235・236・248・256・289・313・323・366さんなどです。」
227「また晩年に全国各地から応援に駆け付けてくれた皆さんも合わせて紹介しましょう。
ファンの方々も懐かしいと思います。なお()内は前任地です。
178(姫路一)、179(姫路一)、192(早岐)、197(志布志)、199(加古川)、204(米沢)、215(小牛田)、240(小牛田)、252(奈良)、315(奈良)、345(奈良)・・・。」
325「ここにあげた皆さんの中で特に印象深いというか、雑誌やメディアに会津をバックに登場して話題となったのは、例えば197さんは『旅』誌77年3月号の表紙を飾りました。桜満開の湯野上駅で憩う姿です。
またこのメンバーには入っておらず、46年に廃車になってしまった235さんは、当時のDJキャンペーンのスポンサーであった日立家電の“キドカラー”の広告に登場したりしていました。」

         
  
会津とファンとC11 只見線
325「ひととおり皆さんの自己紹介や現況などをお聞きしましたので、続いて会津での思い出やファンとの触れあいなどについて語っていただきましょう。
まずは只見線の方からお願いします。」

64「会津只見線といえば鉄橋を行く風景が一般的だったけれど。」
244「確かに・・、趣味誌のガイドでもたいていは滝谷の鉄橋から紹介していたものなあ、会津の風景というのはそれだけじゃないのに。」
63「まあ只見川とそれに架かるさまざまな鉄橋、そしてそれをとりまく四季折々の美しい自然、それをバックに走る蒸気機関車・C11というのが会津のイメージにいつしかなっていたようだからなあ・・・。」
244「第三只見川橋梁などは代表的な撮影地だったしね。」
325「今もそうですよ。数十年ぶりに会津にC11が帰ってくる、ということで騒がれた一昨年と昨年、いずれもファンが集まったのはまず第三只見川だったですし、また情報誌も撮影ガイドで紹介したものだから・・・。」
64「それとアーチの第一只見川橋梁、こちらはあのDISCOVER・JAPANのポスターや記念入場券にも登場したよね。写っているのが何番かは解らないけれど。」
             
   1974年6月23日滝谷川橋梁254号機 撮影 会津のけむり様

63「滝谷や第三の他にも下部トラスの第二只見川、水沼〜中川間の第四只見川などがあったね。」
244「私のいる柳津の町外れにも良い鉄橋がありましてね、ここで温泉街と川、田園風景をバックに撮影された方も多かったようです。
いずれにしても只見川を渡っていた我々をカメラに収めるには根気と工夫が必要だったようですね。」
63「そうそう、川口までの客車が残っていた頃はまだ効率も良かったようだけれど、私が会津に来た頃は貨物だけになっていたし、季節や臨時が走ればまだいいけれど定期だけだとそれぞれの橋で一日一往復ちょっとを捉えるのが限界だったようですね。」
254「それはDCで移動したりしても、ですか?」
244「うん、つまり風景の良いところで走行写真を撮る場合ということなのだけれどね。
我々を列車で追いかけるだけだったらスジが寝ている列車なら何回かシャッターシャンスはあったようだけれど。」
63「いずれにしても忍耐のいることだったようですね。
だから私たちも美しい風景の中で気持ちよく走れた時などは『ああ今日はいい写真が撮れたかな?』なんてファンの成果を気にしたものです(笑)。
でもいまじゃあ皆さん車という便利?なものを使いますからねえ・・・、イベント列車は1日1往復程度の運行が多いから撮影機会をより多く得るために車を利用するのでしょう。
確かに先回りして何回もカメラを構えるのは可能だし、いろんなアングルにも取り組めるようですが、なにか割り切れないものを感じることもあります。ま、この想いはおいおいお話いたしましょう。」
227「現代のファンの復活蒸機への接し方、というようなことなのですね。
わかりました、これはまたのちほど場を設けまして話題にしたいと思います。
ところ只見川沿いを行く皆さんの姿は有名ですが、他にもお気に入りの場所などはあったのでしょうか?」
312「ええ、皆さん会津といえば川と鉄橋を思い浮かべるみたいですが、私なんかはそこへ分け入っていくまでの会津盆地の風情が好きでしたね。
駅でいうと坂下あたりまでの区間でしょうか。
西若松で会津線と別れてゆっくり盆地の町をめぐってゆく、沿線は田んぼが広がり、道のかたわらには小さな祠やお地蔵さんが立ち、線路脇には所々に形のよい木々があり、秋ともなれば名物の“会津身不知柿”がたわわな身を付けて彩りを添えます。そんな風景・・まさに日本のふるさとを感じさせる会津の里をバックに走る私たちは本当に幸せでした。」
              
            1974年10月2日西若松付近312号機 撮影 会津のけむり様
325「それは今でも変わらないですね、会津の風景と人情はいつまでもそのままで・・そしてC11も戻ってきたのです!」
244「本郷・高田・根岸・新鶴・・みんな想い出がありました。客車を牽いていた頃は、朝夕の通勤・通学列車も活気がありましたね。」
64「うん、特にまだ客車が残っていた頃は朝の坂下駅では上下の列車が到着してホームが学生たちでいっぱいになる、なんて風景が毎日ありましたね。
すごく活気があって彼等・彼女らを送り迎えできる喜びと責任みたいなものも感じたものでした。」
325「その子たちが大きくなって今回の私の運転にも乗りに来てくれたのかなぁ、なんてつい思ってしまうんですね。自分の子供も連れて『ほら、おとうさん・おかあさんが学校に通う時乗ったきかんしゃだよ。』なんて話ながら・・・。」
(一同、うんうんとうなづいている)

227「やはり会津はC11にとっても“こころのふるさと”のようなところなのでしょうね。
盆地でも良い撮影地があったこともよくわかりました。
その他ではまだなにかございますか?」
312「そうですね、客車の終点だった会津川口はいまも湖水に陰を落とす風景が残っていて復活運転の時も賑わっていました。
あと盆地部分とは反対になりますが、終着駅というか全通してもC11が来るのはここまでだった只見駅も良いムードだったのだけれど、こちらでの私たちの姿はあまり見かけなかったですね。」
244「客車も川口までだったし、鉄橋などでの撮影を考えると只見では時間や効率が悪かったからじゃないかなあ。」
              
              1972年3月 雪融け間近の只見で発車待ちの248号

※ブームの頃の会津(只見)線 蒸機牽引列車(季節・臨時を含む)
46年(1971)5月現在〜客車牽引列車があった頃
下り 客車 若松〜宮下1本 若松〜川口1本
   貨物 若松〜宮下・川口・只見 各1本
   単機 宮下〜川口1本     計6本(撮影有効時間帯 約3本)
上り 客車 川口〜若松2本 宮下〜若松1本
   貨物 只見・川口・宮下〜若松 各1本 
   単機 川口〜宮下1本     計7本(撮影有効時間帯 約6本
* 撮影有効時間帯は夏期に走行写真を普通に撮影できる時間帯で、大体6時〜18
時に主な撮影地を走行している列車とした。

48年(1973)10月改正時(貨物運用のみの頃)
下り 若松〜只見2本 若松〜坂下1本 坂下〜川口1本(単機)
上り 只見〜若松2本 坂下〜若松1本
 すべて撮影可能だが、始発・終着時は厳しいものもあり。

※会津只見線 当時の駅名(会津若松〜西若松は滝ノ原線と併用、なお只見〜大白川は未開業として考えた)
会津若松―七日町―西若松―会津本郷―会津高田―根岸―新鶴―若宮―会津坂下―塔寺―会津坂本―会津柳津―郷戸―滝谷―会津檜原―会津西方―会津宮下―早戸―会津水沼―会津中川―会津川口―本名―会津越川―会津横田―会津大塩―会津蒲生―只見

※会津の名撮影地・只見線の鉄橋(駅名・区間は現役時のもの)滝谷以遠
滝谷川橋梁 滝谷〜会津檜原 上部プラットトラス+プレートガーダー
第一只見川 会津檜原〜会津西方 アーチ
 *形式はスパンドレルブレーストバランストアーチ
第二只見川 会津西方〜会津宮下 二径間連続上路トラス
第三只見川 会津宮下〜早戸 三径間連続上路トラス
第四只見川 会津水沼〜会津中川 下路曲弦トラス1連+プレートガーダー
第五只見川 会津川口〜本名 下路曲弦トラス+プレートガーダー
第六只見川 本名〜会津越川 上路プラットトラス
第七只見川 会津横田〜会津大塩 上路プラットトラス
第八只見川 会津大塩〜会津蒲生 下路曲弦トラス2連+プレートガーダ−

                
           1974年6月23日第1只見川橋梁254号機 撮影 会津のけむり様

大川に沿って・会津滝ノ原線
325「一方、滝ノ原側はいかがでしょう?私は只見側ばかり2年続けて走ったので、そちらの方も現役時を含めてよくわからないのですが・・・。」
63「大川に沿って渓谷を見ながら走るこちらも川と橋梁がポイントだったようです。
旅客は早くにDC化されましたので、ブームの頃には貨物だけになってしまっていました。」
※ 滝ノ原線の客車列車は昭和42年(1967)7月でDC化された。

64「西若松までの間は只見方面の列車と共用だったから、数をこなすにはこのあたりで撮影するのがよい、などと書いたガイドもあったようだね。
まあ景色は平凡だったけれど・・・。」
80「会津線の見所、というか撮影名所はやっぱり桑原から弥五島あたりの大川を渡るあたりでしたね。
湯野上までの間に渡る3本の鉄橋を歩きながらアングルを変えて撮っている人はよく見かけました。」
63「その手前の上三寄〜桑原にあった闇(くら)川橋梁もよかったそうだよ。
何でも外から見ると滝を望む国道橋もきれいなコンクリートアーチ橋で、その後ろに下部トラス橋の会津線が走っているので面白い構図になったのだそうだ。
走っている我々ではわかんないけれどね(笑)。」
227「今ではその川の車窓風景を楽しむ『トロッコ列車』が走っているそうですよ。
まさに乗ってよし・撮ってよし、が会津線でしたね。」
               
            1974年10月26日闇川橋梁 197号機 撮影 会津のけむり様

312「あと思い出すのが“湖底に沈んだ駅と集落・桑原”だね。
駅の前後に勾配があったので、定数の多い時には補機が付いたのもこの区間があったためだし、すりばちの底の桑原駅には可愛い給水塔があって、下り列車を牽いて来たぼくたちはここでたっぷりおいしい水を呑ませてもらったっけ・・・。」
63「若松寄りのトンネル手前がファンのお立ち台?で、ここから桑原を発車して煙をあげる私たちを撮影した人はみな思い出すんじゃないかなあ。」
80「それもみな大川ダムの建設によって湖底に沈んでしまったそうです。付近の橋梁や茅葺き屋根の民家が寄り添っていた桑原の集落も・・・。」
312「今はみな思い出の彼方なんですね、でも多くのファンの方々のフィルムや記憶に焼き付けられた私たちの姿は永遠に残って行くのですからそれでよしとしましょう。」
                
           1974年10月15日船子峠に向けてダッシュ 63号機 撮影 会津の煙様

227「寂しいような懐かしいようなお話でした。
さてだんだんと南会津に入ってゆくわけですが、こちらの区間ではどんな場所が印象に残っていますか?」
244「会津長野〜田部原にあった木造の小学校をバックに走る時はいつも子供達の歓声が楽しみだったよね!
あの子たちももう大きくなったのだろうなあ・・・。」
325「当時の終着駅だった滝ノ原はどんな感じだったのでしょう?」
244「滝ノ原までのC11の運用は48年にはもうなくなってしまったのだけれど、それ以後も積雪時にラッセルなどの後ろに付いて入ったこともありました。
田島と同じようにこちらにもターンテーブルと給水塔に給炭台など、私たちの休憩場所が用意され、ほっとひと息つけたものです。」
254「あれは鉄道ファンの75年頃の掲載でしたか。『たきのはら ゆめのなか』というタイトルのグラフ記事(岡安克幸氏)がありまして、まだ私たちが滝ノ原に来ていた頃の姿を中心に写していただいたものでした。
転車台に乗り秋の気配の中で物思いにふける姿、そして豪雪の中をラッセルを押して出て行く姿などが実に叙情的で、C11のいた滝ノ原の魅力がいっぱい描かれていたそうです。
そんなC11の来る終着駅の良いムードに溢れていた『会津滝ノ原』も野岩鉄道が開通して終着駅でなくなり、駅名も会津高原と改称、駅周辺の雰囲気もすっかり変わりましたが、静かな山里に来ていたC11の姿はファンの心の中にいつまでも残っていることでしょう。」

325「会津線の思い出のいろいろ、どうもありがとうございました。ところで254さん、先ほどもちらっと話にでた「保存会」のことなのですが・・・?」
254「はい、保存会というより『おそうじ会』といった感じの集まりなのですが、私が田島小学校から駅前に引っ越してきてからというもの、しばらくはシンボルとしてそれなりに注目を浴びたものの次第に珍しくなくなり体も汚れ、あちこち痛みも出て来ました。
また雪深い冬になってもシートもかけてもらえず難儀をする始末・・。
それを度々訪れて見ていた地元の一ファンの方が役所に掛け合って、簡単なおそうじを定期的にしてくれるようになったのです。」
244「ほう、それは羨ましいです!一応私もかつての活躍場所を横に見る駅前で屋根付きで保存されているのですが、雨風はしのげてもやはり人の手で細かいところまでお掃除していただけるのはありがたいことですよ。」
254「まあ、いろいろな制約もあって何でもできる、という状態ではないんですが、こうして私を見守って下さる地元の方がおられるだけで心強いものです。
おそうじ会のメンバーはまだ少ないものの、遠方からもお手伝いに来て下さる方もおり、また地元の小学校の子供達が私の事を知りたくて訪問してくださったり・・こうして目を向けて下さる皆さんのためにいつかは復活してやるゾ!などという希望も持ってしまいます(笑)。」
325「その日が来る事を願っております、頑張って下さい!」

※254の保存会などについては会津C11様の「会津の汽笛」を御覧下さい

※ブームの頃の会津(滝ノ原)線 蒸機牽引列車 季節・臨時を含む昭和46年(1971)5月現在 
下り 貨物 若松〜田島・滝ノ原 各1本
   単機 若松〜田島1本 上三寄〜湯野上1本(ほとんど運転されず)
   計4本(撮影有効時間帯 約4本) *単機は貨物を牽く場合もあった
上り 貨物 滝ノ原・田島〜若松 各1本(それぞれ田島〜上三寄、湯野上〜若松で
後補機△運用あり・・連結しない場合が多かった
   計2本(撮影有効時間帯 約2本)
会津線の運用は出荷貨物などの量によって左右されるものが多く、ほとんど運転されないもの(補機仕業のための単機を含む)もあった。

※会津の名撮影地・滝ノ原線の鉄橋(駅名・区間は現役時のもの)
闇(くら)川橋梁 上三寄〜桑原 下部トラス
第一大川 桑原〜湯野上 プレートガーダー
第二大川   〃    下部トラス
第三大川   〃    下部トラス+プレートガーダー
湯の上  湯野上〜弥五島
第四大川   〃     
第五大川 湯野上〜弥五島 下部トラス+プレートガーダー

※会津滝ノ原線 当時の駅名(現在の会津鉄道では改称・新設・廃止などでかなり異なる)
( )は現・会津鉄道の駅名
会津若松―七日町―西若松―門田―上三寄(芦の牧温泉)―桑原―湯野上(湯野上温泉)―弥五島―楢原(会津下郷)―会津落合―会津長野―田部原―会津田島―中荒井―荒海―糸沢―会津滝ノ原(会津高原)
                     
            1974年4月4日第1大川橋梁 192号機 撮影 会津のけむり様

終着駅の印象・日中線
325「会津の最後は日中線ですが、この11.6キロのローカル線にはいろいろな思い出がみなさんありそうですね。」
64「喜多方から熱塩まで、飯豊連峰を目指していた未完の野岩羽線の一部として開業したものの、夢破れて行き止まりになってしまった線でした。
私が会津にいた頃はもっぱらC12さんの働き場でしたが、いつしか運用の合理化とかでC11の担当になりました。
早朝若松を出る621レで客車を喜多方に運び、さらに通学の高校生を沿線に迎えに熱塩まで行くのが日中線での一日の始まりでした。」
63「そうそう、若松発の一番列車621レは上野からの夜行列車に接続していたからファンにとってはありがたい列車だったようだね。
発車を撮っても喜多方でちょっと停まるから後続のDCでも追い付いて乗る事も出来たようだし。」
64「それで熱塩まで一往復して戻ってくれば日中線の朝の仕事は終わり(笑)。
客車を喜多方の端っこにある切り欠きホームに残して僕らは転線し、単機で若松へ帰ったわけだ。
その日の日中線担当のカマが変わらない時は半日寝ていて午後になるとやおら起きだし、単機で喜多方へ向かい夕方の2往復を走ってそれで一日の仕事はおしまい・・・。
日中線が語られる時に『日中は列車が走らないのに・・・』というフレーズが必ず入るようになっていたのはこういった運用だったからなんだよね。
ま、超ローカル線ゆえの通勤・通学ダイヤなのであまり名誉なことではなかったけれど、SLが客車を牽くということが最後には貴重な存在になって多くのファンが訪問してくるようになったのは怪我の巧妙だったのかな。」
80「日中線はあの『赤字83線区』にも入っていていつ廃止になってもおかしくなかっただけに、我々が消えると同時になくなるとも言われていたね。
晩年には貨物もほとんどなくなっていたし・・・、ところが結局後継者としてDE10くんが投入されてその後も相変わらずの状態だったみたいなんだ。
でも駅や施設の方はもう荒れ放題で、『仙鉄局』(当時の管轄管理局)はいったい日中線のことをどう考えているのか!!という疑問の声さえ出ていたそうです。」
64「うん、駅もみな幽霊屋敷のようだ、と訪れた人は一様に話していたようだね。
まだぼくらが働いていたころは会津加納だけには駅員がおり(正確には運転関係要員で、駅の出改札業務はしなかった)、また近くの与内畑鉱山からの搬出物や若干の貨物もあったので、わりと小ぎれいに保たれていたけれど、それもなくなるとやっぱり同じように荒れてしまったなあ。」
63「仙鉄局もなるべく日中線のことは話題にしたくなかったような、言葉は悪いけれど放置みたいな扱いだったね。
だったらいっそのこと早く廃線にすればいいのだけれど、そうすると地元との交渉も発生するし、そうこうしているうちに『本州最後のC11が走る線』になって全国からSLファンが押し掛けてきてしまった。」
325「それで?」
63「ファンはSLを撮りにくる、とはいっても切符はみんな「周遊券」でタダ乗りみたいな状況、まあ記念に車内補充券など買ってくれるから若干の増収にはなったものの、目の行き届かない無人駅をいいことにそこで寝泊まりしたり、設備の破壊や落書きなどのやり放題をする心無いものもやっぱりいるわけで、あの洋館を思わせる瀟洒な外観だった熱塩駅もひどいものになってしまったのです(涙)。」
                  
                  1974年8月7日 熱塩 撮影 会津のけむり様
日中線の一日
312「日中線の担当になると一日3回熱塩駅に顔を出すわけですが、あの駅舎は本当に外から見れば素晴らしいものでした。
『瀟洒』という形容詞がまさにぴったりするほどで、北欧の洋館を思わせる外観、緩やかなカーブを描いた屋根にちょこんと突き出た煙突、木枠の改札口を出ると半円形の屋根を持ったエントランス部分があり、坂道が温泉街へと続いていました。
でも内部はというとすっかり壁は剥げ落ち、もちろんガラスや備品等は壊され、いたるところに落書きがあってもう廃虚同様になっていました。
無人になって久しい頃にも何故か『昭和36年10月改正』の東北地方の時刻表が貼ってあり、まったく時が止まったような状態でした。
そんな駅の中を知る事もなく、我々はお客様を下ろすと車掌さんが一人何役も兼ねて私たちを誘導し、車止めから機回り線に戻って喜多方側へ連結して発車までのしばしの時間を過していたのです。」
227「古い写真では貨物ホームにも立派な上屋があり、運ばれる荷物が山積みにされていますね。」
64「熱塩からもいっぱい荷物が出荷されていたことがあったんですからねえ、あの貨物上屋と引き込み線は遅くまで残っていましたが、お客様(荷物)の出入りがなくなってからはすっかり草むらの中に埋もれてしまいました・・。」
244「朝の621レは中学生や高校生のお出迎え列車、622レで喜多方へ学生を運んで一仕事終了。
午後の623レは今度は帰宅列車になるわけですが、まだクラブ活動などで残っている学生もいたのでいつも見る顔はまちまちでした。
喜多方のホームで待っていても乗って来ない時は『おや、今日はクラブかな?』などと思ったものでした(笑)。」
312「そうだったね。喜多方を出て右にカーブすると商業高校があって、放課後のクラブ活動をする生徒たちの姿をよく見かけたものでした。
ちょうど西日が傾く頃なので、その高校の校庭に私たちの影が映り、気付いて振り向くテニス部の女の子に『頑張れよ!』と汽笛を鳴らしたりして、ちょっと楽しかったね。」
63「村松・上三宮・加納と学生を降ろし、熱塩に着く頃はもう日もとっぷりと暮れてすっかり暗くなっていたね。
改札口上の電燈や車止めのオレンジの明かりが駅の存在を示しているようでした。
学生達が散ってしまうと車掌さんが手旗を振りながら私たちを誘導して客車の前に連結し、約10分ほどで624レとなってまた喜多方へと戻っていきました。
この列車もやっぱり普通のお客さんはいなかったなあ・・・。」
312「624レで喜多方に着くと一時間ほど休憩があり、そのうちにすっかりあたりは夜の雰囲気になっていました。
切り欠きの日中線ホームは何かうら寂しい雰囲気がいつもありましたが、隣に磐西の列車が着くたびに乗り換えの学生たちがこちらに歩いてくる時だけは活気がありました。
喜多方市内からの帰宅の子たちも加えてちょっと早い“最終列車”625レは6時半頃に発車、白熱灯の仄かな明かりの下で一日の楽しかったことや勉強のことなどを語らう学生たちの声を乗せて、今度もひと駅ひと駅降ろしてゆくのでした。
『またあした!』『じゃあね!』なんて声を聞いていると、皆の生活を運んでいるのだなあ、という実感が湧きましたね。
加納の発車の汽笛を鳴らすと私の今日の仕事もあと一息です。
飯豊の山並もすっかり夜の帳の中、熱塩駅に到着しました。」
244「そして最終の626レになるわけだ。時刻は夜の7時半、東京ならまだ宵の口、町は賑やかに“さあこれから”という頃ですが、奥会津の終着駅はもう一日の仕事を終える時間なのでした。
少数のファンと車掌さんだけが今日の最後のお客さんで、降りる人も乗る人もない駅に停まり、また汽笛を鳴らして喜多方へ向かうのが626レでした。
ただ車掌さんは駅に着くとホームに降り、無人の駅を照らす裸電球のスイッチを切ってゆきます。
なにか『家の戸閉まり』をしてゆく感じでもあったね。
この列車は夜汽車のムードもいっぱいで、もう乗っているのはファンだけで、それも写真なんかもうどうでもいい、ただ汽車の音を聞きながら座席に身をゆだねているだけで旅情を感じるひとときを楽しんでいる人が多かったみたいでした。」

325「日中線とC11の一日、ですか。何か情景が浮かぶようですね。ありがとうございました。」

227「終着駅ばかりが印象に残っているようですが、沿線ではどんなところにファンがいましたか?」
63「う〜ん。有名なポイントというものはなかったけれど、熱塩駅手前の押切川を渡る鉄橋、加納までの林の中、加納駅に入るところのアーチ型の道路橋、意外と小奇麗な山小屋風だった会津加納駅と入換風景、ああそれと加納駅には鉱山の引き込み線やその施設なんかもあったね。」
             
          1974年5月11日 会津加納 215号機 撮影 会津のけむり様

80「会津の最後を飾ったのが日中線、というのも言い知れぬ感慨がありますね。
ああ、僕らの旅ももう終着駅が近付いたのかな、なんて思ったりして。」
227「ありがとうございました。日中線での活躍の思い出もきっといつまでも皆さんの心の中に生き続けることでしょう。」

※日中線 当時の駅名(廃止まで変化なし)
喜多方―会津村松―上三宮―会津加納―熱塩

日中線関連C11運用(47―3―15改正)
列車番号・時刻は無煙化までほとんど変わらなかった
会津若松0514混621レ→0542喜多方0612→熱塩0649
熱塩0702混622レ→0735喜多方0754客244レ→若松0827
若松1448単623レ→1509喜多方1604混623レ→熱塩1642
熱塩1651混624レ→1731喜多方1832混625レ→熱塩1905
熱塩1915―混626レ→喜多方1946
        (平日)喜多方2003―回客626レ→会津若松2023
※休日は回客626レに喜多方〜若松の234レを併結し、C11の双頭列車となっ
た。             

※ C11健在の頃の日中線(主に終着駅・熱塩)を紹介した趣味誌の記事
旅と鉄道No13(74秋の号)『終着駅 旅路果つるところ』
表紙が熱塩駅、続いて巻頭グラフで「夏の終りの印象 SLのくる終着駅・熱塩」を紹介。
カメラと文は江坂光守氏 登場するカマは63号など。   

磐越西線の区間列車
325「最後に意外と見落とされがちなのが、日中線と合わせて磐越西線に残っていたC11牽引の客車列車のことなのですが・・・。」
63「ああ、ありましたね。新津までのC57さんや貨物のD51さんがほとんど去られてからも、なぜか我々の担当する区間列車が残っていました。」
227「それはどんな運用でしたか?」
312「え〜とですねえ、まず若松〜喜多方間では早朝日中線に入るため始発が会津若松の621レがあり、塩川停車のみで喜多方まで走っていました。
この区間でお客様を乗せるのはこの列車と朝の熱塩へ行ってきたカマが若松へ帰る時(本務はDL)で、午後の日中線へは単機で喜多方へ向かっていました。
またそれとは別に若松〜野沢に通勤や通学の方の帰宅列車として、大体夜7時頃出て野沢まで往復し、9時頃に帰ってくるものがありました。
休日は喜多方止まりでしたが・・・。」
63「あれ?確か帰りはディーゼルさんが本務だったんじゃないかな。」
312「おっとそうでした。帰りは新津からのDD51さんの後ろについていったっけ。
それと休日は喜多方止まりだったからダイヤが変わっていたので別に回送列車として若松に戻っていました。」
80「この列車は年間を通してほとんど走る姿を撮影するのは難しかったから、ファンの方はもっぱら録音や汽車の旅を楽しんで乗っていたようだね。
ちょうど一日の撮影を終えて、心地よい疲れを我々がドラフトと汽笛で眠りに誘ったわけだ。」
312「今でいう『癒し系』ですか(笑)。
でもって若松に戻ってしばらく待てば上野行きの夜行列車で帰京できるというメリットもあったようです。」
                
               1974年3月21日会津若松244レ 80号機 撮影TADA

※46―5〜48―10頃の磐越西線 C11牽引区間列車 
蒸機牽引区間のみ表示 若松〜喜多方で日中線と同運用のものは除く
1233レ 若松1902―喜多方1928―野沢2004
(48―10以後)237レ 若松1849→野沢1951
(喜多方〜野沢は休日運休)
234レ 野沢2011―喜多方2048―若松2116 後付回送
(48―10以降)234レ野沢2001→若松2109
(日・祝運休 本務DLで後C11 なお日・祝は下りが喜多方止めになるため、喜多方2007〜若松2027の日中線回客626レにC11を連結した。 
日中C11+回626レPC×2+234レPC×7+逆C11)
*年度によって列車番号の違いや若干の時刻変更あり   
                
       1974年6月1日会津若松-堂島 野沢行237レ 312号機 撮影 会津のけむり様  

会津のC11大団円
325「会津地区の無煙化は皆さん御存知のように昭和49年(1974)の10月末のことでしたが、最終期のメンバーやさよなら運転、またその後の動きなどお話いただければ、と思います。」
244「無煙化より若干時は遡りますが、会津に来るファンが多くなってきた48年(1973)頃からのことをお話ししますと、4月に姫路からの助っ人179さんと四つ下の弟248が検査切れで引退し、小出側で活躍した19さんやここにおいでの80さん、また遠く奈良からの252さんが新たに加わりました。
翌月は315・345・366といずれも東北で頑張った皆さんが去り、7月には弟の後を追うように178さんも運用を終了しました。
このようにメンバーの入れ替わりが頻繁となっていよいよ末期の感が強くなってきたのです。」
254「私が同じ九州の仲間(192・197)と相前後して会津に来たのはその夏だから本当に入れ違いになった皆さんも多かったのですね。」
325「その頃郡山で検査を受けていた372さん(弘前区 阿仁合線の最後のC11)が貸与というかたちで会津を走ったという記録も残っています。
したがって372さんも会津のC11の一員ともいえますね。」
                
       1973年8月西若松 弘前区からのレンタル(2ヶ月)された372号機 撮影 会津のけむり様

244「私も11月にいよいよ最後の運転となりましたが、幸い柳津での保存が決まっていましたので庫に保管され、皆さんの活躍をながめることになったのです。
そうして最後の年1974年を迎えたのでした。」

312「49年9月末まで若松区に残っていた仲間は、まず3月末時点では19・80・192・197・199・204・215・252・254・289と私312の11両でした。
その後9月までに19と289が廃車となり、代わりに小牛田から63さんと240さんが入りました。
従ってこの11両が会津C11のラストメンバーとなったのです。
廃車通達などは9月前後から始まり年を越したものもありますが、50年1月前後で大体完了しています。
その中で保存が決定したのは63(喜多方)、80(津山)、240(赤穂)、254(田島)、312(松阪)と約半数でした。
この数が多いのか少ないのかは判断に迷う所ですが、最後のメンバーのほとんどがいろいろな前任地があり、苦労の末に最後にこの会津若松で過したことを思えば全員が良い余生を過ごせればよかったかなあとの感慨もあります。」
312「最後の年昭和49年は豪雪で明け、私たちは貨物を運ぶ事が出来ず、もっぱらラッセル車の後押しに精を出しておりました。
そんな中、二休車になっていた244さんの代わりに米沢より204さんが駆け付けてくれました。」
80「うん、ようやく春になり、今度は我々の仲間も順番に検査期限が来てみんなお疲れさま!ということで後任の方と入れ替わったわけだ。
252・289さんが5月に、19・199さんが6月に引退し、代わりに3月で無煙化となった石巻線担当の63・215・240さんが来たんだっけ・・。みんな本当に最後まで頑張ったね。」
312「そして夏になってついに会津のC11を引き継ぐDE10さん(6号)が長町区からおいでになり、その後続々とDE10さんが入ってきたんだね。
『ついに最後がきたのかぁ・・』という気持ちがみんなの中にはあったのだろうけれどそれはけっして表に出さず、日々の仕事をこなすことが確実に後継者に引き継ぐための使命だと思い励んだものでした。」
227「したがって会津若松区の最後の配属C11は(49年10月末時点)、63・80・192・197・204(二休)・240・254・312の8両の方々ということになりますね。
そして会津地区のC11定期運行の最終日、つまり昭和49年10月31日のことですが、資料によれば当日はストが予定されており、回避はされたのですが乗務員などのやりくりの関係がつかず、実際に走ったのは只見線側が会津
坂下までの1493〜1492レのスジでC11192の牽引、会津線側が8393〜8392レでC11197牽引、そして日中線がC1180というメンバーだったようです。
野沢往復のナンバーはわかりませんが、このカマが実質上、会津のそして本州のC11の現役最後の稼動機になったのでしょうか。」
325「坂下までの運用は磐西の客レと一緒だったそうですから、野沢までの最後の担当はやはり192さんだったのでしょうか。
でも当日はどうだったのか今となってはわかりません。御本人も解体されてしまっているので、ここはファンの方の情報を待つ事にしましょう。」

*最後のメンバーで前任地があったもの(保存車以外)
192早岐、197行橋〜志布志、199加古川、204米沢、215津山〜大湊〜小牛田、252姫1〜奈良

63「さよなら運転についてですが、会津地区の無煙化記念も兼ねて49年11月5〜10日までの6日間、会津若松〜喜多方〜熱塩で運転されました。
只見・会津線では行われず、磐越西線と日中線がその代表となったわけです。
この期間は一日一往復で通常はC11+客車2両、最終日はC11+客車5両+逆C11でした。
その最終日の行きの本務を私が務めさせていただきました。
本州最後のC11に選ばれた事は望外の喜びでした。」
80「それからこの『さよならウィーク』の前日と前々日(11/3・4)にも同じ区間に地元新聞主催の記念列車(会員制)も走りましたね。
こちらは一日二往復でC11+客車6両+C11でした。
いずれにしても日中線にこんな長い編成が入ったことは最初で最後でしたから、各駅の有効長も関係無し!
でもこれだけ最後を惜しんでくれたのは会津の皆さんの暖かい心遣いとファンの想いがあったからだと感謝しています。」
                
         1974年11月1日会津加納C1163+客車+逆C1180 撮影 会津のけむり様

豪雪の只見線を語る
325「さてそれではもう一方の只見線である小出口のC11についてお話を伺いたいと思います。
こちらで長く活躍された方で現存の方といえばやはり46さんですね。」

46(S9日立 47―3長岡廃車 新潟県北魚沼郡湯之谷 上ノ原児童公園保存)
                
                     2007年4月17日 撮影TADA

「お誉めに預かり光栄です。長年活躍した只見線沿線に保存されてもう30年あまりが立ったのですね。
自己紹介といってもこれというほどの経歴ではないのですが・・・・。
私は新製配置は九州の早岐でしたが昭和15年に大宮に移り、関東に御縁が出来ました。
25年には横浜、26年に高崎(渋川)と周辺で働き、30年4月に越後の国・長岡(当時は第1)に赴任し、それ以後17年間ほとんどこの長岡の本店?から小出の駐泊所に出張して過ごしました。
名だたる豪雪地帯ではありましたが、夏の新緑、秋の紅葉もあってまさに美しい日本の四季を眺めながら汽笛を鳴らせたことは、お隣会津側のC11さんと一緒でたいへんよい一生を送れたものだと思っています。」
63「再び発言します。私も46号さんとともに長く小出口で働きましたので懐かしいです。
只見線からC11が引退したのは実は44―10の時でして、意外と早かったんです。
もっとも完全というわけではなく、冬期になると除雪用に只見で使用しているDLを使う必要があり、雪が降る季節になると私達に再び役目がまわってくる、といった状態だったのです。
従って44年の暮から45年の春、45年の暮から46年の春と小出〜大白川には蒸機が頑張っていたわけです。
このへんの情報を趣味誌で確認し『ああ今年の冬も大丈夫だったか!』と雪とC11の情景を頭に描いて安堵するのが当時のファンの想いだったのでしょうね」
46「ただそれも46年の春までだったね。さすがにDLの増備もあって、この3月で本当に最後になってしまったわけだ。」
63「最後のメンバーは19・46・63だったけれど、その後はバラバラでしたね。
46さんは地元に保存。私はいったん新津へ移動してから会津若松へ、さらに小牛田で石巻線の最後を経験して、おまけに郡山工場の蒸機最終出場車にもなり、そしてもう一度会津へ戻って会津地区のさよなら運転も務めさせてもらいました。
晩年はせわしなかったけれど充実したものでした。
けれど19さんは残念でしたね。晩年まで残った唯一の1次型だったのだから何とか保存されれば良かったのですが・・・。」
※ 長岡には43―10まで231号もいた。(戦後は230・231の兄弟機が只見線を担当、のち46などが加わる)なお231のプレートは交通博物館に展示されている。
19のプレートは目黒区祐天寺のカレーショップ「ナイアガラ」に展示されている。
  
交通博物館 上から3段目左にC11231が見える。 カレーショップ「ナイアガラ」 撮影TADA

二回あった「さよなら」運転
325「只見線ではC11のお別れ行事が二回あったと聞いておりますが」
46「先ほどもお話したように小出口の無煙化は46年(1971)の4月19日なのですが、少し間をおいた5月2日に1回目がありました。
その時は私(46)が客車4両を牽いて定期135〜136レのスジ(通常はDLのため若干時刻変更)で1往復しました。
そして半年後の11月3日には大白川方に19さん、小出方に63さんが付いて客車3両で走りました。この時は臨時列車扱いです。
あと5月に私が走った時付けられた『蒸気機関車ご苦労さま』のヘッドマーク(鉄道友の会新潟支部作製)が新津市の鉄道資料館で大切に保管・展示されていますので、お近くにお寄りの際はぜひ御覧になって下さい。」
               
            1971年5月3日大白川 46号機   1971年2月11日藪神〜越後広瀬 63号機
                          撮影 忠賢八高様
只見線全通30周年を語る
227「さて最後に最近の会津を語る上で欠かせない『只見線全通30周年記念』で復活したSL運行についてお話していただきたいと思います。
会津側と小出側が結ばれたのは昭和46年(1971)8月のことでしたが、結局ダイヤ改正は小規模で、消えると思われた会津側のC11の運用はそれほど変化はなかったですね。」
312「もう30年たったのですね(遠い目)・・・。
ああそういえば趣味誌が全通を伝えたのは大体46年の11月号あたりなのですが、『鉄道ファン』(127号)ではたまたま巻頭に『あいづ線のC11』というカラーグラフがありまして、そのトップに私(312)が登場しているのも何かの縁かもしれません。
他に289さんや313くんも出ていましたが・・・。」
227「それは懐かしい思い出ですね。その30年後の運転については当事者の325さん、何かございますか?」
325「そうですね、まあこの2年の運転に関しては皆さんも、またファンの方もよく御存知でしょうからあらためてお話しすることもないのですが、当初会津での運転が伝えられた時、私はてっきり大鐵の312さんが出張するのだとばかり思っていました。
312さんならもともと会津が故郷のようなものですから適任ですし・・・ところがその大役が真岡の私のところに回ってきたのには驚きました。
JRへの入線条件などいろいろ制約があって312さんは無理だったらしいのです。
幸い真岡の皆様の暖かい御理解があって出張させていただき、久々に東北の地を踏みました。
現地でも多くのみなさん、そしてファンの方々の歓迎を受けとても幸せでした。」
312「いやあ325さんの会津での活躍をテレビや雑誌などで拝見して本当に良かったと思っています。
只見の出張がきっかけとなって翌年も運転、そして近々には八戸線にも行かれるとのこと、さらなる活躍を期待していますよ325さん!もちろん大井川で私も頑張りますが、いろいろな制約をクリアーしていつかは故郷でもう一度と
いう気持ちは持っていますよ。」
227「会津でお世話になった方々にはあらためてC11一族から感謝を述べたいところですね。」

※ この文の執筆時点ではまだ八戸線の運行前だったので、その運転時の様子や後日談などは語られていません。

325「その平成14年の運転が終了したあと、訪問したファンの中から『復活を企画し実行して下さった沿線自治体のHPに御礼のメールを送ろう!』という声があがり、たくさんのメールが各自治体に届いたそうです。
これは嬉しかったなあ。とかく打ち上げ花火のように一時は盛り上がってもそれっきり、というのはこういった記念列車のイベントなんだけれど、それだけ今回の復活運転への自治体の取り組みや、また実際走ったC11と沿線の風景と歓迎ぶりは遠来のファンの方々も感銘をうけたのでしょう。」
227「何はともあれ30周年の記念運転は良いイベントになりました。
そしてこれがきっかけで会津に再び煙を、という気運が高まりつつあるのも嬉しい事です。」

そして定期運行へ
63「会津から煙が消える頃“蒸気機関車を観光のために走らせて保存しよう”という動きがあったそうです。
日中線などで運行させるというものですが、まだ山口線のC57運転もなく、保存は梅小路でともかくも実行し、合理化と無煙化を至上命題としていた当時の国鉄の状況ではやはり実現には難関が多過ぎたようです。
でも今の復活蒸機の活躍やバックアップ体制、そして会津の観光資源のひとつとしての蒸機運転の可能性を思えばあの提案はあながち間違っていなかったのではないのかな?とも思えますね。
もっとも時代背景や経済的環境も違うので後世史家の評価ともいえますが・・・。」
80「でも日中線が残っていれば蒸機を運転するには手頃な感じだったよね。
11・6キロという距離も乗車にはほどほどだし、起点は“蔵とラーメンの町・喜多方”終点には熱塩温泉と観光スポットがあるし、もちろん会津若松という拠点や中間の塩川も“のれんの町”としてPR中、沿線風景や長さはあまり煙も見られないだろうから撮影のファンにはちょっと物足りないかもしれないけれど本数を増やしても一般の輸送にも影響はないし、会津・只見を含めたトータルな『蒸気機関車タウン』として常時運転のゾーンとして活用できたんじゃないかなあ。」
312「熱塩に転車台を作って向きも一定に出来たらなおいい!」
63「喜多方では『SLばんえつ物語号』のC57180さんなどとも顔を合わせたりできるしね。」
244「実際、ある趣味誌では西の山口線に対して会津ゾーンでの動態保存運転の誌上プラン(※)なども昭和50年代に掲載されたこともあったようですが、当時の国鉄の置かれた厳しい環境ではやはり夢物語に終わってしまいました。」

※「蒸気機関車」70号(80―11)の対談記事「SLブームって何だったんだろう?」内で提案された加納太氏の「東日本の国鉄動態保存プラン」。

325「その会津に再びC11が復活して二年、先般の運転後にわかに只見線を含む会津地区で定期的に蒸気機関車を運転させたい、という声に応じた計画が取り沙汰されるようになってきたのです。
今年(2003)の1月、JR仙台支社がその構想を新聞に発表したのでファンの間でもにわかに話題となっているのですが・・・。」
63「私も聞きましたよ、2シーズンの運転で蒸機の観光資源としての価値が再認識され、JRさんも只見線の活性化の切り札として我々C11を使いましょうということになったらしいです。
で、借り受けではなく自前の機関車を持とうということになって、それなら会津周辺に保存されているゆかりのC11を復原したいということで状態調査に入るのだということです。
私や柳津の244さんなどがその対象らしいのですが・・・。」
244「まあ復活候補にあがるのは嬉しいことなのですが、その前にもっとファンの皆さんには考えてほしいことがありますね。」
227「ほう、慎重な御発言ですね。それはどうしてなのでしょう?244さんなら文句はないところでしょうし静態から動態へ、結構なことではありませんか。」
244「う〜ん、うまくは言えませんが動態保存と簡単にいいますが、その実現にかかる経費やマニュアル作製などなど実にたいへんなことであり、今まで静態の我々がどういう気持ちで日々過して来たのかということを思うとなんとなく気が重いのです。
おそらく私や63さんが動態復活するとなれば“億”という単位のお金がかかるでしょう。
それだけのお金が支出されるのであれば、その何分の一かの費用で多くの不遇をかこっている静態保存機の整備に回せるのだと思うのです。」
63「確かにお金の性質は違うのだけれど、今の動態復原ブームはありがたい反面、大切なことがなおざりにされているような気もしますね。
撮影に来られるファンの方々もいろいろな考えをお持ちなのでしょうが、どうも『ただ走るSLを撮りにくる』だけで、その回数を競ったり、車での追っかけと称する『出撃』の繰り返しに終始するスタイルの方が多いようで・・・。」
325「それは同感ですね。すべての皆さんがそういう行動ばかりではないことは重々わかっているつもりですが、マスコミをはじめとするメディアはどうしても「鉄道マニア」をそんな目で見て報道しがちです。
幸い大きな事故や社会問題は起こっていませんが、只見線の定期運行がもし開始されたとしたら、今の情報過多の時代では何が起こるかわかりません。」
244「復活蒸機というのは『走るのが目的』になり、現役当時の『目的=輸送のために走る』というのとは自ずと性格が違うのですね。
だから観光のためとかファンの要望とかでいろいろな注文に答えなければならない。
やれ重連にしろだの、スノープラウを付けろだの、ヘッドマークは無しにしろだの・・・。まあ何回も運転すればいろいろ変化を楽しみたいのは人情ですから『粋な演出』もある程度は良いでしょう。
当局が要望を叶えてくれるのは大いにいいんですよ。
でもそれが当然のように考えて貰うのもいかがなものか、とも思うんです。
つまりファンの大多数の方々が暖かい目で、そして真摯な態度で復活蒸機のことをもっと考えてもらいたいんです。
もちろん静態保存の実状などもですが・・・。」
(その通り! の声)
325「なるほど、こんな時代にこそほっとひと息つける蒸気機関車の旅が求められているなら我々も大いに活躍したいものです。
でも撮影名所での『そこどけ!』の声や不作法な立ち居振る舞いはもうかんべんですね。」
63「要するに復活蒸機というものは、撮影に来る鉄道ファンだけのものではなく、“きしゃ”の旅を楽しみに訪れる多くのお客様、そしてもちろん地元のみなさんなど多くの方々のために走るのであるから、けっして撮影第一のような感覚で接してほしくはないということです。
ベストショットも思い出になるけれど窓から手を振る子供達だって、カメラを構えるおばさんだって皆楽しんでいるのですから、ファンこそ『一歩ひいて』の心構えで会いに来てほしいものです。
私たちはいつでもここにいるのですから・・・。」
325「そうですね、いろいろな世代のファンが我々に対して抱く感覚はそれぞれですし、個々の事情もありましょう。
でも鉄道をそして蒸気機関車を愛するのという気持ちがあるなら自ずと接し方というものはみえてくると思います。」
244「私、さきほど動態復原の費用に関して静態保存のカマにも光を!と言う意味のことをお話ししたのですが、蒸機は煙をはき、動輪を回してこそ価値がある、ということももちろん賛成です。
蒸気機関車は人類が発明した動力“蒸気機関”、そのメカニズムを生きている状態で知っていただけるという貴重な存在なのです。
名目上は『子供達の遊び相手として、また教育の一環として保存展示され』ている公園機関車ですが、悲しいことに子供達は単なる『登って遊ぶ』固まりとしか見てくれません。
しかし325さんや多くの復活蒸機を目の前にした子供達は、目を輝かせて私たちの動く様を見てくれています。
その姿こそ未来へ続く蒸気機関車の生き方の糧となっているのではないかと思うのです・・・。」
63「うん、その通りです。でも244さんや私が味わっている長年の静態の経緯や、厳しい状況に置かれている大多数の静態保存機の皆さんの気持ちを少しでもわかっていただければ、という想いもファンの方々に知っていただきたい、ということなのです。」

227「みなさんの言わんとしていることはわかるような気がいたします。
まあ“急いては事をし損じる”ということもありますし、ここはじっくり考えていただき、只見線で通年運行が実現された場合も期待通りの結果がでるかどうかもよく検討していただきたいものですね。」
312「そうだね。結局我々に会いに来てくれるお客様も、撮影に来る鉄道ファンの方々も現状では限りがあるわけだし、復活蒸機どうしでパイの奪い合い、なんてことにもなりかねない、へたすりゃ乗車客が減って共倒れなんてことにならないかと心配してしまいます。」
227「この大井川鐵道に私が来てはや20数年がたちました。
いろいろな苦難を乗り越えて現在の私たちの姿があるのですが、近年そんな蒸機を中心とした産業遺産の価値を見い出し、観光資源と保存などについて考えてゆく全国的な組織も出来ましたし、横の連係も密になってきました。
だからけっして悪い方向には進まないと思いますので63さんも244さんもひとつじっくり待つ事にしようではありませんか。」
63・244「そうですね、わかりました。」
325「まあJRさんも関係者の方々もあせらずゆっくり、そして確固たる信念を持って運行に望んで欲しいし、ファンの皆さんもひとつのポリシーを持って、いやそんなに堅苦しいことでなくとも、静態・動態保存の意義などもちょっぴり頭の片隅に置きつつ撮影に来て欲しいものです。
そうすれば私たちもいつまでもこの美しい会津や各地の保存鉄道でいつまでも煙をあげて生き続けることができるのですから・・・。」
(一同、汽笛)

227「以上で東北地区の皆さんのお話は終了とさせていただきます。
さすがC11が活躍した線が多かったため、なかなか充実したものとなったようです。
長時間お疲れ様でした。このあと引き続き東日本の関東・中部・北陸地区から近畿・中国・四国・九州とまだまだC11保存機の方々が見えられますが、ここでちょっと休憩いたしましょう。
大鐵様の御好意で今回も美味しい川根路のお茶ならぬ水、そして名物?の石炭を御用意いたしましたので、周辺の資料館の見学やコッペルさんなどから保存の苦労話など聞いてみてはいかがでしょう。
では御自由におくつろぎください・・・。」

第一部・二部終了
                
              1974年5月19日加納-熱塩 19号機 撮影 会津のけむり様

会津地区のC11に関しては『会津のけむり』様のサイト「汽車に魅せられて」に詳しく紹介されておりますので御覧下さい。
また本文を書くにあたって参考にさせていただきました。
あらためて御礼申し上げます。

                    第3部 関東・中部編へ

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