長崎電気軌道 800

長崎電軌が木造車の置き換えを目的として都電3000の車体に西鉄の台車を組み合わせて製作。
801〜805の5両の計画だったが、車籍が与えられたのは801、802のみ。
ラッシュ専用ツーマン車のため活躍期間は短く1975・76年に竣工、廃車は1982年。
803〜805はナンバーを与えられながら営業運転することもなく消えた幻の車両。
3145→801 3215→802 3240→803 3241→804 3242→805

撮影日 1980年8月27日 長崎電軌 浦上車庫


801 方向幕には「浦上車庫」が見えます。


幅広方向幕を持った803、フェンダー部にサビが出ています。
番号も付けたものの入籍はせず、幻の車両で終わりました。


151、504と並ぶ802と805 805の後ろには804と803が並んでいます。 


このときはカメラ2台でカラーとモノクロだったのですが、
カラーでの800はこの1枚に写っているだけでした。


ついでに168もスキャン。写真撮る前に扉閉めておけばいいのに・・・


この日の目的は「軽快電車」2000の見学でした。

長崎800に関する掲示板の書き込みです。(一部編集してあります。)

No.6524]
ご無沙汰です。
 投稿者:マイク  2005-08-11
(木)  00:02
  <URL: http://www.ne.jp/asahi/mike/hp/>

こちらにおじゃましのは月影さんのサイトを見ましてちょっと疑問がありました。
長崎電気の写真で都電6000形に似た電車が写っているので、気になって調べてみました。
↓こちらのサイトさんに800形というのがいたそうですが、元東京都電3000形とのことです。3000形も他都市へ行ったんですね。
http://www.geocities.jp/naga_den/rekidai-index/tatosi-index.html

しかし昭和50年から57年までと短い間で3両は入籍もしていないようで、部品取りだったんでしょうかね。
でも一番気になるのはこの3000形5両は、昭和50年まで荒川車庫にでもいたんでしょうか?
もしかして既出でしたか…。
それでは失礼します。


No.6526]  投稿者:TADA  2005-08-11 (木)  22:07
マイクさん
800の画像なんてあったかな?と思って再度見てみたら・・・浦上車庫で150の後ろに小さく写っているやつですね。
いやよく見つけましたね。
譲渡されたものの、ほとんど使われなかったという曰く付きの車両です。
私も浦上車庫で写していますが、長崎電軌の専門サイトさんでも800は車庫内の画像のみですね。
ワンマン化がほぼ終わっていたころ譲渡されたにもかかわらず、ツーマンで竣工したためか、走行写真は市内のものは見たことがありません、かろうじて車庫内での試運転の様子がJTSの会報に掲載されたくらいではないかな?
たしか水害で機器をやられてしまいそのまま廃車になったと記憶しています。
錦糸堀にいた車でした、長崎への移動はS50年よりも前に行っているはずです。
ナンバーなどどなたかフォローしていただけるかと。
[No.6527] と書いたら 投稿者:TADA  2005-08-11(木)  22:09
坂下国郎さんから長崎800についてメールをいただいていました。
以下転載します。

マイクさん(元玉電80系さん)の投稿にあった、長崎電軌の800形(都電3000形)に関して、私が知っている事を申し上げます。

この5両は昭和47年の錦糸堀車庫廃止にともない、長崎へ譲渡されたものです。

3240〜42と3173(だったと思います)と、もう1両(番号はわかりません)で、いずれも錦糸堀に配置されていた車輌です。

長崎では、水害にあったりして、結局は働くことなく特に3240〜42は車籍をもらうこともなく解体されてしまいました。

この3両は43年9月の早稲田車庫廃止時他に3238・39と共に錦糸堀へ配置換えになりました。38と39は程なく大塚へ行き、同車庫廃止の際に解体されました。

No.6529] たどり着いたらいつも長崎 投稿者:さっしい  2005-08-12 (金)  07:34
  <URL: http://homepage1.nifty.com/sassy/>
マイクさん、TADAさん、坂下さん
では、マイ・データバンクから、ちょいと今回もお節介いたします。
長崎に行った3000形は、3145、3215、3240〜3242だったようですよ。
錦糸堀所属、昭和47年11月15日付で廃車。12月中に長崎へ渡ったようですが、
3145→ 801(S50.11.12)、3215 → 802(S51.4.21)となり、
残りの3両は10年後には解体されてしまったそうです。

    当時の鉄道ピクトリアル誌バックナンバーにあたってみると、記述は様々で驚きました。
    長崎への搬入車体は、275号の車両めぐりでは、3206・3235・3240〜3242、
    276号の読者短信では、3145・3215・3240〜3242と記されています。
    
    そこで、その276号山城正一氏の記述をベースに、その後の動きもまとめてみると、
    昭和47年12月に都電3000形の車体を5両分(3145・3215・3240〜3242)搬入、
    それに西鉄北九州線の109、106、77、110、107の台車を組み合わせ、
    長崎電軌の801〜805として再生しようと試みた。
    しかし、何らかの事情で竣工は801・802のみ、それも昭和50〜51年のこと。
    残りの3両は結局稼動せず…ということになるでしょうか。

    実は、同誌301号に、竣工間近という804の写真(昭和49年9月)が載っており、
    元は3241であり、802(元3215)共々その完成が近いと記されています。
    マイクさん御紹介のサイトでは「幻の800形」とされていますね。

    また、同誌323号では802(元3215)の営業開始(昭和51年4月付)が報じられ、
    その時点で801は既に稼動中、803〜805の改装工事は未定という状態だそうです。
    ちなみに、そこには802の市内走行写真(浜口町付近)が載せられていました。

実際に就役した2両は、言わば「普通の3000形」でしたが、
残りの3両は最終グループで、狭幅、9枚窓、大型方向幕の連中でしたね。
こういう形での最後は、何だか可哀想な気もしてしまいます。
まぁ、少しでも他都市のお役に立てたのだから良いのでしょうか。
しかしそれも、あっという間に消えてしまったという印象でした。
TADAさんの仰るように、水害が原因の一つだったようですね。

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